公開処刑と俗信                 

福嶋 正純

 昔アンデルセンの伝記を読んだときに、「小学校の生徒たちが校長先生に率いられて処刑場に行き罪人を囲んで慰めの歌をうたった」との記述があったのを覚えている。詩人は処刑の光景が脳裡に焼き付いて、後々までも悩まされたらしいのだが、ある研究者は、小学生を処刑の場に連れてゆくなんて、この校長は性格異常者ではないか、と現代の視点から判断して疑問を呈していた。だが校長は別に異常でも何でもなく、その当時刑の執行は民衆に威嚇効果をもたらすため「塀の中」ではなく、多くの観衆が流血の行為に参集することができるように、マルクト広場や戸外の広場で公開されていた。1805年のプロイセン刑法はいまだ「遠方にいる観衆も処刑を見ることができるように」処刑の時に取るべき事項を明確に定めていた(J.M.Rameckers, Der Kindesmord in der Literatur der Sturm und Drang Periode 1927)。若い時には心情がきわめて敏感であるから、罪を犯した結果がどうなるかを心に深く刻むために青少年もその場に立ち会わなければならなかった。それで処刑が執行される当日、学校は休日となった。ドイツでは校長が生徒を処刑場に引率してゆく義務があった。死刑の宣告を受けて裁かれる罪人を眺めることは生徒に消し難く強い印象を与えるに違いなかったし、彼らを生涯同じような犯罪から遠ざけようとする深慮がそこに働いたのである。生徒は必ずしも身も凍るような情景を観客として眺めるだけではなかった。教師は児童にこのような場面に適した歌を合唱させて、罪人の安らかな死を祈らせた。

       逃れることができなくて
       裁きの庭に立たねばならぬとき
       ああ、わたしを救ってください、
       あなたの懐にわたしを受け止めて下さい。

 処刑の当日は全くのお祭り騒ぎとなった。歩ける人は誰一人家に留まらなかった。近郊から、さらに遠方からも人々が処刑場に押し寄せてきた。処刑場の近くには焼き菓子、焼きソーセージ、ワイン、ビール、焼酎その他の食べ物、飲み物を買い求めることができる屋台が立った。酔っ払った職人や農夫、女たちが通りをふらつき嬌声を挙げた。有罪宣告された罪人の処刑は公開の見世物となっていた。その情景はブレンターノの『健気なカスペルルと美しいアンネルルの物語』(1817年)やカフカの『流刑地にて』(1919年)の作品からも知ることができよう。
 1800年に嬰児殺しの女ヘネケンはベルリン監獄の独房から引き出され、公開の席で車輪刑(Rädern)の判決を受け、手足を折られ車輪の上に編み込まれたが、処刑の日時、場所は前々から一般に周知された。死刑執行の二、三日前から、粗末な印刷のパンフレット、いわゆる死刑囚の歌に彼女の生涯と犯罪行為が記述され、ベルリンの街角で売られていた。さらに一般大衆までも --- これは広く一般に行われていたことなのだが --- 独房まで、罪人を見るために入って行くことが許された。

         車輪刑(Rädern)の光景1

 車輪刑の処刑執行はいわゆる処刑台の上で行われることになっていた。それは石の塀で囲まれた数フィートの高さの石壇であって、梯子を使って上がることができた。罪人は壇の床に手足を伸ばして横たわり、軽く持ち上げられて、幾つかの丸太に括りつけられた。これらの丸太は腕、脚、胴体の下に置かれた。この準備が下僕によって整えられたあと、死刑執行人は車輪を手に取り、それを罪人の体に叩きつけ、そのために罪人の骨はばらばらに折れた。法律は予め次のように定めていた。余り重大でない事件では罪人を「上から下に」打ち砕くことによって優しく処理する。つまり死刑執行人は重い車輪を第一撃で頸部を狙って打ち落とすのである。その結果罪人は即死するか、あるいは少なくとも意識を喪失した。その一方で重大犯罪者は「下から上に」打ち砕かねばならなかった。その結果おそらく罪人は処刑の間、ずっと意識を持ち続け、長く苦痛にさいなまれることになる。

         車輪刑(Rädern)の光景2

 これに関して1749年にプロイセン国王フリードリヒは一通の法令を出した。この刑罰の目的は、「犯罪者が苦しみを受ける、この点にあるのではなく、むしろ犯罪者に加える恐ろしい見せしめによって、犯罪に対する嫌悪を起こさせる点にある・・・それゆえ罪が重大でない限り、罪人は車輪刑の前に、死刑執行人の手によって、人目につかぬよう、また周囲の観衆に奇妙に感じられることなく、前もって絞殺され、それから車輪による処刑がなされるべきである。」(Erlass vom 11.Dez.1749, in R.J.Evans, Öffentlichkeit und Autorität. Zur Geschichte der Hinrichtung in Deutschland vom Allgemeinen Landrecht bis zum Dritten Reich 1984)それゆえヘネケンは車輪刑が実施された時には、恐らく死んでいた。だが彼女の打ち砕かれた体や手足から血が川のように流れ出たであろうと想像できる。下僕たちが処刑台を掃除している時、群衆が、あるいは好奇心から、あるいは血に染まった布や縄を求めて、さらにはてんかん発作に対する治療薬とされる血液を手に入れようと処刑台に殺到した。そのときひと騒動が持ち上がった。石壇に上がることを狙って数人の職人仲間が下僕たちに金銭を与えようとした。下僕は職人が納得できるよりも高額を要求したので、そこから生じた言葉のやり取りはやがて殴り合いまでに高じた。職人たちは血にまみれた縄で叩かれた結果、彼らに名誉喪失の汚名をかぶせられたのである。だが名誉喪失の原因は、不名誉な死刑執行人の手にする縄に叩かれた結果であって、罪人の血ではない、時を待たずに死んだ人の血には、その人の生命力が強く宿っていると信じて、民衆は競ってその血を求めた。処刑の後彼女の体は縄を解かれ、車輪の上に組み込まれて、車輪は処刑場近くに立つ杭の上に固定された。その肉体は他の人に対する警告として腐敗するにまかされた。頭部は切り落とされて、杭の上に差し込まれた。

 ベルリンの著名な解剖学者 Heinrich Wilhelm Waldeyer(1836-1921)は1858年ハノーファー王国ゲッティンゲンで執行された処刑を目撃し、“Lebenserinnerungen“(1920年)でその経過を詳細に述べている。

         車輪刑(Rädern)の光景3

 「町の近郊の開けた場所に遠くから見ることができる断頭台が組み立てられた。その上には死刑判決を受けた罪人のほかに、刑吏とその下僕、そして数人の裁判官、またさらに多くの観衆が場所を占めていた。わたしはこの観衆の中にいた。それで処刑の成り行きが良く見えた。刑場を取り巻いて数百人以上の群衆が集まっていた。罪人は白衣を着て断頭台の上に置かれた死刑執行椅子の横に立っていた。刑吏は白いマントを羽織り、その下に斬首刀を隠し持って罪人の横にいた。裁判所書記が、国王によって追認された判決を朗読し、それから昔ながらのしきたりに従って、罪人の頭の上で棒が折られた。そのあと刑吏が彼に右手を差し出した。罪人もまたその手を握り、そして振った。それから下僕たちが彼を死刑執行椅子に導き、その上に座らせた。彼の頭と目の上に白い帽子をかぶせて、腕と脚を椅子に結びつけた。そしてあごの下に革製の輪をかけた。その輪で下僕の一人が彼の頭部をピンと真っ直ぐに保った。これらすべては手早く、巧みに行われた。罪人の目の上に帽子が引き下ろされたとき、刑吏は大きく幅広で、鋭く光る斬首刀をマントの下から取り出し、罪人の左側に歩み出た。身構えて一撃で頸部を切り離すというよりも、むしろ滑らかな一振りで、あっという間に頭部を胴体から切り離した。頭部は革製の輪の中に留まり、切り口から血の柱が二本、さながら噴水のように、ほとんど50センチの高さまで噴き上がった。体は後ろに倒れようとしながら、さらにまた血の噴水が、未だ続く心臓の鼓動とともに一、二度次第に低くなりながら繰り返された・・・断頭台のすぐ近くには、てんかんの痙攣に苦しむ人たちが数人並んで立っていた。彼らは下僕にコップを手渡していた。この容器に下僕は吹き出る血潮を受け止め、てんかん患者に差し出した。患者はそれをすぐさま飲みほした・・・また血をすこしビンに入れて持ち去った農婦についてこう言われた“その血を玄関の扉に塗りつけるためだ。火事封じに効くのだ”と。」
 処刑された人の血は、昔の生贄の動物の血と同様に高く評価された。血は通常では生命力の担い手として見なされているから、医薬として大きな役割を演じるのは別段驚くべきことではない。処刑された罪人の血のみならず、暴行されて殺された人の血も推奨された。前述のように生きる力を持ちながら、生命が他の力によって断ち切られた人の血液が貴重なのである。だが新鮮な死刑囚の血がとりわけてんかんに効き目があるとみなされた。てんかんに対しては、すでにローマ人が倒れた剣闘士の血を飲ませている。
 刑吏の下僕は斬首のあと、すぐさま泡立つ血の入ったコップを差し出したが、その血は無料ではなく、しばしば高値で売りつけられた。病人が血を飲んだ後、人々は病人と一緒に一斉にその場から走り去ったり、失神して倒れるまで、病人を鞭で追い立てたり、更には馬上の二人が無理やり引っ張って行った。これは病んだ精気を蘇生させるための荒療治であって、その例は1823年にツヴィーカウ近郊のシュネーベルク、1829年ロイトリンゲン、1861年ハーナウなどでも見られた(Handwörterbuch des deutschen Aberglaubens, Bd.4)。1862年にもアペンツェルの救貧院に暮らす、てんかんに苦しむ一人の女性が、当局から処刑の場に赴き、この療法を試みても良い、という許可をもらった。その上、暖かい血を三口飲み込み、そのときに三人の最高者の名前(神と精霊と子か?)を唱えるよう助言まで受けた。罪人が流した血を服用するだけでなく、罪人の血でハンケチを濡らして、それを身につけておくと、病気が治る、とも信じられた。それゆえ1850年頃ヴォルフェンビュッテルの人たちは、処刑された罪人の血に布を浸して、それをてんかんに苦しむ病人に与えた。1850年にはベルリンで刑吏の下僕が多量の白いハンカチを二人の殺人犯人の血の中に浸して、一枚2ターラーで売りさばいている。それは彼らの重要な収入源になっていた。使用されたのは血液だけではなかった。1801年にハンブルクのある医者はこう嘆いた、処刑された罪人たちの肉体は「てんかん治療の目的で短時間の間にすべて掘り起こされていた」と。1832年にはシュネーベルクの罪人の遺体から手足の指、衣服がすべて盗まれた。
 処刑された罪人の肉体の遺物、遺骨は色々な目的に利用された。処刑された人の指はイボを治す薬、あるいは魔物を防ぐお守りとなる、と民衆は信じた。その指を敷居の下に埋めておくと、それは魔物の侵入を防ぎ、家に幸運を呼び込むとのことであった。処刑された犯罪人の皮膚についても、それがお守りに使われ、さまざまな病気、災難よけに使われた、と1769年に報告されている。絞首された罪人の皮膚を切り取って、革ひもにして、お守りとして携えたり、あるいは金切り声を挙げて暴れる人をなだめるために体に巻き付けた。1810年アンドレアス・ホーファーが絞首刑に処されたとき、数人の兵士が罪人の手足の部分を手に入れようとして結託した。彼らの中には後にウィーン監獄の所長に昇りつめた人もいた。彼らはだが逮捕され、処罰された。
 だがなぜ極悪非道で、しばしば残忍な犯罪を行って処刑された犯罪者の血液と、その人の遺物が人々に益をもたらし、また治癒力をもつことになるのであろうか。人間の生命力は血液の中にある、と古来民衆に深く信じられてきた。また指の爪、足指の爪、また髪の毛は死後しばらくの間まだしばらく伸びてゆき、死を乗り越える生命力を象徴していた。この事実が処刑された無法者の肉体から手の指、足の指を切り取る行為と結びついたのであろう。てんかん患者による罪人の血液の服用は、てんかんが言わばたびたび起こる一種の一時的な死と考えられたことにその理由がある。中世の資料の中でてんかん患者について「彼らは言わば死である発作に苦しむ」とある(O.Temkin, The Falling Sickness. 1971)。処刑された罪人の血の中に宿る生命力には、明らかにたびたび「瀕死の状態」に持ち込む悪魔の攻撃に対抗する力があるとされていたのである。
 啓蒙主義の普及とともに俗信追放の機運が高まり、1800年にベルリン都市裁判所長官はプロイセン政府に11項目を勧奨した。罪人は死刑判決直後に特別の監獄独房に収容のこと、下級官吏および聖職者以外の面会禁止、大衆向けパンフレットの流布禁止、処刑の日時は一般に周知する必要はない。処刑場には騎兵隊、歩兵を投入、観衆を処刑台から充分な距離遠ざける処置をとること。軍隊は大衆が解散し始め、処刑のすべての痕跡が除去された後に、初めて退去すべきことなど。1848年の革命後新しい刑法典が導入され、ドイツ諸国で採用の時期は異なるものの、処刑は監獄内部で執行されることになった。これによって血液や、その他の遺物売買の習慣に終止符がうたれた。血を求めて民衆が争う余地は皆無となった。

<< 広島独文学会ホームページへ戻る

 

 


inserted by FC2 system