ひとつ

筒井 友弥

 2012年3月6日, 午後4時半, ハイデルベルク。哲学者の道のベンチに腰をおろす。ゲーテやヘーゲル, ヘルダーリンなど多くの哲学者や詩人たちが好んで歩き, 思索にふけった散歩道。ここでならきっと何かひとつ。おもむろにバッグから手帳とペンを取り出す。準備は万端。
 2011年12月の中頃, 広島大学の古川昌文氏からエッセイ執筆の依頼を受けた。2002年から2009年まで, 博士課程後期の学生として自らが在籍した広島大学の, 個人的にも大いにお世話いただいた古川さんからの依頼である。断れるはずもなければ, 端から断る気もなくふたつ返事で了承した。それから早3ヶ月。これほどに自らの浅聞と貧相な感受性を悟った時間があっただろうか。あがいてももがいても題材ひとつ浮かばない。
 そんな折, 勤務する京都外国語大学の海外セミナー引率担当として, 1ヶ月間ドイツのマンハイムに滞在することが決まった。本学とマンハイム大学は, 派遣留学制度の提携校として, 毎年互いに数名の学生を派遣している。この関係で, 派遣留学以外にも, 春期休暇を利用した短期留学としての海外研修を, 大学直属の機関であるマンハイム大学サービス・マーケティング協会との連携のもとで実施している。2012年の今年は, 22名の参加学生を連れて, 2月11日に関西国際空港を飛び立った。引率業務は2年前の2010年にも担当し, 今回で2度目となる。また, 京都外国語大学は私の母校でもある。学部から修士課程までの7年間を勉学に勤しんだ。「7年間」というのは, 修士生の頃に, 派遣制度を利用して1年間留学していたからである。つまり, マンハイムは, 学生時代の私の留学先でもある。バーデン=ヴュルテンベルク州に属するマンハイムは, 人口約31万人を擁する大学都市で, 同州の経済的・文化的中心として, また国内の交通の拠点として名を馳せるドイツ中南部の町である。町の中心部が, ちょうど京都の町並みのように碁盤の目の作りになっていることでも有名だろう。そのマンハイムから, S-バーン(近郊鉄道)でネッカー川沿いを南に向かうと, 20分と経たないうちに古城街道ハイライトのひとつであるハイデルベルクに到着する。
 2012年3月6日, 午後4時半。手帳とペンを握りしめ, 準備は万端。
 腰をおろしたベンチから, 眼下に, ネッカー川に架かるカール・テオドール橋, 橋の袂に白壁の塔門, その奥には, 旧市街の街並みに囲まれて聳えたつ聖霊教会を見下ろす。さらに, 左手奥に目を移すと, 小高い山の斜面にハイデルベルク城を眺める。三十年戦争とプファルツ継承戦争という二度の惨劇で壊滅的被害を受けたこの城は, その後, 幾度か修復が試みられるも, 結果, 現存する建物を保存する方針が町として定められ, 廃墟とは思えない堂々たる風情を醸しながらその居を構えている。通称アルテ・ブリュッケ(古い橋)と呼ばれるネッカー川最古の橋, 代々の選帝侯の墓所として建てられたゴシック様式の教会, ロマン主義の芸術家たちを魅了した歴史を語る古城。いずれも煌々と輝く西日に照らされて, その存在を視覚に訴えかける。これほどのシーンを備えて, さすがになんら題材ひとつ浮かばないはずはない。握りしめられた手帳とペンが, 自らの活躍の瞬間を今か今かと待っている。さあ, 文学を! さあ, 哲学を!

  Philosophenweg (哲学者の道より・ハイデルベルク)

 嗚呼, ここで目に浮かぶはひとつの情景。眼下の橋の上で, その一角で, ハイデルベルク城を背景に思い出を重ねた時間。2000年2月に初めてマンハイムを訪れ, それ以後の4年間に, マイレージが10万マイルを超えるほど通いつめたその町から約20分。「息抜き」と称して小旅行を決め込み, 相変わらずの街並みを目的もなく歩きながら, いつも無意識につないでいた互いの手と手。そうして, たとえ何も話さなくても, 無言のまま必ず向かった場所。昼夜を問わず, どれほどここに赴いただろう。どれほどここで肩を寄せ合っただろう。たわいない語りと将来の誓い。それから12年。時の流れを憂いていないと言えば嘘になる。後に訪れたその恋の終止符に, いまだ感傷に浸る未練がましい自分さえ存在する。当時は, 心にぽっかりと穴が開き, それで

も迫られる多くの課題に, 頭と体だけが先を急いで心が置いてきぼりを食う日々もあった。今ではもう忘れてしまった, 人を想うという情熱が心身を焦がし尽し, その名のごとくまるで「灰人」と化してしまった日々。今の立場が続く限り,私はこれからも, 引率者として幾度となくこの街を訪れることになるだろう。そして, ネッカー川の流れと走りゆく冬雲を見つめながら, 生涯の移ろいと儚さを嘆くかもしれない。裏腹に, 昔の自分と対峙するたび, 変わらぬ街の景色と自らの形骸を憂い続けるかもしれない。遠目に廃墟を見やって, 自らの虚ろな人生を悔やみ続けるのかも。

 いや, 本当にそうか。自らの半生を振り返りながら冷静に問いただす。少なくとも, 今はむしろ, 心は歓喜に満ちている。そんな昔の自分を思い返しながら, 今の自分が, 母校の大学講師という立場で再びこの地を訪れていることに, 喜びで思わず顔がほころんでしまうのだ。「やっぱり, 人生はおもしろい!」と。思えば, 中学卒業後に地元福井県の眼鏡工場ででも働こうと, 将来を舐めきっていた一人の青二才が, いつしか大学講師として偉そうに教鞭を執ることになるなど, いったい誰が予想しただろう。高校を中退する気で, 学校を無断で欠席し続けた自分勝手な若輩が, その後も親の脛をかじり続け, 大学生活の大半を夜遊びに費やした世間知らずが, いずれ学生を引き連れて偉そうに他国の文化や歴史を語るなど, 他ならぬ自分自身にさえ微塵も予測できなかった。人生は, 何が起こるかわからない。わからないから怖くもあり, でもやっぱりおもしろい。そして, ひとつ絶対的なこと。人は人と出会い, 人に支えられて生きている。まさにこの当然の事実が, 私の半生を幸福へと導いた。家族や友人は言を俟たず, とりわけ, 小中高, 大学, さらに大学院へと, その節目で恩師たちが私に与えた生き方の指針は, その後の私を, 今の私を形成する中核を担い続けている。過去の自分が予期しなかった未来の自分は, 今更になってようやく, 恩師たちの謙遜と, それゆえの尊厳に気づく。恩師の言霊が, 中途半端な感傷と郷愁に浸る, 行き場をなくした思い出迷子の胸に, ここぞとばかりに響いている。そうしてまだまだ教えを乞いながら, 同時に, 今や自らも大学教員という立場の一人として, 人を指導するという重責を担う人間として, 社会に貢献しなければならない, いや, 貢献することができるという喜びと貢献させてもらえるという感謝の気持ちに気づかされる。今後, 引率という機会を通し, 連れる学生同士が常に同年代であるのとは裏腹に, 必ず年を重ね続ける自らの立場を噛みしめて, その度に, あらためて生きている実感を味わうことになるだろう。そうして私は, これほどにありがたく幸せな仕事を与えられた自らの人生を誇りに思うだろう。

 2012年3月6日, 午後5時過ぎ。哲学者の道のベンチに腰掛けて30分。たったの30分で, すでに意識が寒さに集中している自らの弱体を思い知り, 同時に, やはり素人が無理をすると, かえって自らの浅聞と貧相な感受性を露呈することに気づく。「やっぱり向いてないな。」掠れ声で独りごちて, 文学や哲学の奥深さと神聖さに打ちのめされる。先刻, 電子辞書で調べておいた「エッセイ=随想=折にふれて思うこと」を頼りに, かつての文章家よろしく, 自己の見聞や体験を筆に任せて綴るつもりが, 結局, ただただ握りしめられただけの手帳と, ペン先を走らせることのなかった筆記具をむなしく鞄にしまい込む。「嗚呼, 寒い。帰ろう。」西日は, ケーニヒスシュトゥールの山肌を撫でるように照らしてから, 今やネッカー川の川面に光のしずくを散らしつつ, 冬空にその姿を馴染ませてセピア色の薄暮を演出している。

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