ハンブルクでの半年

庄司 彩

 私は2011年9月から2012年3月までの半年余りを交換留学生としてドイツ北部の都市・ハンブルクで過ごしました。私は中学生のころから特に文学やクラシック音楽の面でドイツに興味があり,一度でいいから本の中に出てくるドイツの街並みや作曲家たちが生まれ育ったところを見てみたいという思いがありました。ハンブルクを留学先に選んだのも,私の好きな作曲家であるブラームスの出身地だったから,というのが理由の一つです。また大学に入って本格的にドイツ語を学び,文学について知れば知るほど,その文化や生活にも興味がわき,ドイツへ行ってみたいという思いは強くなっていきました。留学までのドイツ語学習や大学内の選考などを経てドイツに行くことができたというのは,私の夢の一つが叶った瞬間でした。

 ハンブルクはドイツ第二の都市であり北ドイツの経済の中心でもあります。古くから交易で栄え,ドイツ最大の港を擁している水運の街です。「水運の街」というのは単に港があるからというだけでなく,ハンブルクでは堰止湖であるアルスター湖をはじめたくさんの運河が市内を巡っています。橋の数はイタリアのヴェネツィアよりも多いのだそうです。正式名称を自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg)というのですが,今でも街の人々は自由と独立を維持したということに誇りを持っています。

  ハンブルク市庁舎。前の広場からだと大きくて全体が撮れなかった

 ハンブルクに来て最初の日,駅まで迎えに来てくれた大学の日本学科に所属している学生と一緒に繁華街を歩き,そこを通り抜けたところにある市庁舎を見に行きました。ハンブルクの街は1842年の大火災や第二次世界大戦によってたびたび破壊されており,古い街並みというのはあまり残っていません。しかしやはり,雰囲気や建物は日本のものと違い,今まで本を読んで想像するしかできなかった世界や空気を,知識としてしか知らなかったものを,実際のものとして肌で感じるという経験をすることができました。そして本で読んだだけではわからないこと――例えば石畳の道はごつごつしていてとても歩きにくいこと――を実際に体験して知ることの喜びや驚きを知りました。この経験はこの時だけでなく,その後の留学生活,旅行先での体験など様々な場面で味わうことになりました。繁華街を抜けると,市庁舎前の広場に出ます。ハンブルク市庁舎。自分が住んでいた街の市庁舎であり,ドイツで初めて目にした壮大な建物だったこともあるのでしょうが,数々のドイツの町の市庁舎を見てもなおハンブルクの市庁舎が私にとっては最も美しいと思えます。緑色の屋根,様々な装飾がなされたクリーム色の壁。「美しい」というのが第一印象ですが,もっと近づいてみると,壁はごつごつしており,門は頑丈でただ美しいだけでなく力強さも感じます。聞いた話によると,市庁舎の向かいには昔教会が立っており,教会勢力に対抗するためにハンブルクの商人たちが教会よりも高い塔を持つ市庁舎を作ろうとしたのだそうです。ここでもハンブルク人の誇りを垣間見ることができます。

Landungsbrückeから見た景色。奥に見えるのが建設中のエルプ・フィルハーモニー

 Landungsbrückeという地下鉄(といってもこのあたりでは地上を走っています)の駅があるのですが,ここはハンブルクの中で私の最も好きな場所の一つです。広大なエルベ川を一望できる場所に位置し,最もハンブルクらしい景色の見える場所とも言えます。初めてここを見たときのことは,今でもはっきりと思い出せます。そのとき私は地下鉄に乗っており,地下鉄が地上に出て走るということにも驚いたのですが,地上に出た後もそのまま鉄橋の上を通るので車道や人々を眼下に見つつ走っていくその様子が印象的でした。そこからしばらくビルの合間を通り,そしてそれを抜けた途端に視界が開け,見えてくるエルベ川。右手に美しいハンブルクの街並み,左手には日本ではありえないほど広いエルベ川を見ながら電車は進んでいきます。駅のあるエルベ川のこちら側の河畔には駅名の通り桟橋がたくさんあり,おしゃれなレストランやカフェが立ち,観光用の帆船などが停泊しており洗練された美しさを感じることができます。半面,対岸(中州なのかもしれませんが)は工場が立ち並んでおり荒々しい印象を受けます。このほかにも年三回,春・夏・秋にそれぞれ一か月開催される移動遊園地ハンブルガー・ドーム,ハンブルクのサッカーチームであるハンブルガーSVの試合,クリスマスマーケット,北ドイツ放送交響楽団のコンサートなど,ハンブルクは新鮮さと刺激に満ちており,一日たりとも飽きるということはありませんでした。それは行事や観光地がたくさんあったからというだけでなく,ハンブルクでの生活が私にとって全く新鮮で,何をしても吸収できるものばかりだったことが最も大きな理由です。

ハンブルクのシンボル,聖ミヒャエリス教会。その裏手にはなぜかモアイ像が立っていた

 この半年間で,私はハンブルクだけでなく,ドイツ国内外の様々な街を旅行しました。クリスマスマーケットの時期にはニュルンベルクへ,ケルンとボンへは初めて一人旅をして私の最も好きな作家の一人であるベートーヴェンの生家を訪ねました。スイスではユングフラウヨッホからの決して人には作り出すことのできない絶景に息をのみ,1月末の最も寒い時期にはポーランドのクラクフとアウシュビッツへ行き,極寒の強制収容所を見てきました。ワイマール,ライプツィヒ,ベルリンを周遊する旅を通してドイツとその文化の発展の歴史を肌で感じ,パリやウィーンではドイツとは違った華やかさと芸術品を目にしました。どれも見たことのないものばかりで,何が一番心に残っているかと聞かれても全部としか言いようがありません。私は,日本に帰ったらもうこの先一生訪れる機会はないだろうと思って半年で行けるだけの場所を旅行しました。初めのうちはとにかくたくさんの景色を見たいという気持ちが大きく,旅行計画を立てた時にはそこに人が住んでいるということを考えていなかったように思います。しかしいざ旅行してみると,レストランで相席になったおじさんとビールを飲みながら語り合ったり,日本語のサインをしたときにレジのおばさんに日本の漢字ってとてもかわいいわよね,と言われ立ち話をしたりと,その土地に住む人との関わり合いがたびたびありました。時にはお金を恵んでくれという人に付きまとわれたこともありましたが,人とのかかわりがその土地の名所や観光地と相まって旅行の思い出を豊かにしてくれたように感じます。また,国外への旅行では地続きであるにもかかわらず国境を越えたとたんに言葉も食べ物も,文化が一変するということに驚きました。国境を超えるということはとても大きな変化なのだと頭では思っていたのですが,超えること自体の容易さと比較した文化面の変化があまりに大きく,ほかの国に来たのだという実感がわかないのに確かに全く知らない土地にいる,という不思議な感覚を味わいました。

ウィーンにて,野外でコンサートのチケットを売ってくれたお兄さんと


スイス・ユングフラウヨッホからの眺め。雪の下には氷河が流れている

 留学している間に私が身をもって痛感したのが,「自分が日本人である」という意識でした。私が留学したのは東日本大震災が起こった後だったので,ドイツではたくさんの人にそのことについて聞かれました。ハンブルク大学の日本学科に所属している学生たちはさすがに日本についてよく知っており,震災やその後の状況についても詳しい情報を持っていたのですが,日本について全く知らない人には,私が日本からやってきたのだと知ると「日本のどこから来たの?そこはフクシマから近いの?」というようなことを必ず聞かれました。ドイツでも原発問題は大きく取りざたされており,この問題に対する一人ひとりの関心の高さがうかがわれた質問だったのですが,こういった質問をしてくる人は逆に福島以外の,津波による壊滅的な被害を受けた地域のことは口にしていませんでした。
 確かに当時,そして今でもドイツにおいて一番の関心事は福島の原発についてでしょう。しかし,あの震災で被害を受けたのは福島だけではないのに,(知らないわけではないのでしょうが)ほかの地域についてあまりにも知らなさすぎるのではないかと,もどかしい思いを幾度もしました。そういったことがあったからか,留学中に一度,震災当時のニュース映像や津波の映像を見返したことがありました。日本にいたときは,とにかく情報収集をしたかったし,突然のことにショックでしたが実質被害はなく現実として受け止めきれない部分があったのか震災関連のニュースで泣いたことはなかったのに,日本を離れてドイツでその映像を見たとき,思わずパソコンの前で大泣きをしてしまった私がいました。遠いドイツから日本のことを見て初めて,やはり私は日本人なのだと痛感し,そして,あの震災が「自分の国」で起こったことなのだと,自分の問題として再認識させられました。離れてみて初めて,自分の属している文化がよく見えてくると言いますがまさにそうで,震災の問題に関わらず,ドイツの文化に触れ,ドイツでの暮らしに慣れていくほどに日本の文化や自分の属する文化について今まで当たり前だったことがいかに私を占めていたのかを知りました。そして同時に,日本の文化や風習に対する違和感も持ちました。日本人はあまりにもみんな同じすぎるのではないか,というのがその違和感の最たるものです。特に日本の若い人がみんな流行に乗って同じような格好をし,同じような色に髪を染め,同じような髪型にしている写真や映像をドイツでも目にしました。ドイツでももちろん流行はありますが,そこまでそれに流されるというわけでもなく,純粋に自分の着たい服を着ている,という印象を受けました。そういう印象を抱いた後には,日本の「みんな同じ」というものが何か異質なものに見えるようになりました。日本に帰国する数日前,日本学科の先生で日本人留学生の世話役をしてくださっていた日本人の先生に挨拶に伺ったときに少しその話をしたのですが,先生に「その違和感に気づけたことに意義がある。気づいたあなたが,みんなと同じにならなければいい。」と言われました。みんなと同じにならない。やはり留学したといってもドイツ人ではない私には難しいことです。

           お別れパーティー

そして,同じになりたくないという意識も確かにありますが,私はドイツに来る前よりも日本が好きになりました。日本人は主張ができない,考えがあいまい,などという欧米の考え方にさらされてきた今までは,どこかにそれに対する劣等感のようなものを持っていたような気がします。これも留学を通して学んだことですが,あまり自分の意見を主張しない,発言しないというのは確かに日本以外ではあまりよくないことかも知れません。しかし,何も言われなくても相手の考えていることを察する,また「空気を読む」というのは日本人が持っている素晴らしいスキルでもあると思います。日本人に対する違和感とともにすごさも改めて認識することができた私が,それをどうこれからの生活に生かしていけるのか,それはまだはっきりと見えていませんが,常に新しい目線で物事を見て,私なりの「同じにならない」が何なのかを見つけたいと思います。


<< 広島独文学会ホームページへ戻る

 

 


inserted by FC2 system