ドイツ人の傭兵事情          

福嶋 正純

 新英和大辞典(研究社)でHessian を引くと「米国独立戦争の時英国の使ったヘッセン人の傭兵」とある。Braunschweig とかAnsbach などの単語は国の説明,あるいはまったく出ていないから,ヘッセン人の傭兵はアメリカではかなり知られた存在であったのであろう。北アメリカ独立戦争の間にヘッセン・カッセル,ブラウンシュヴァイク(約5,700 名),ヘッセン・ハーナウ(約2,400 名),アンスバッハ(約2,350 名),アンハルト・ツェルプスト(約1,100 名),ワルデック(約1,200 名)の諸侯は領民を兵士として英国に売却した。この時ヘッセン・カッセル方伯はおよそ17,000 名の兵士を提供して,傭兵総計29,875 名の大部分を占めた。1そのうちドイツに帰国できたのは僅かに17,313 名であった。シラーは兵士の売却によって愛人ミルフォード夫人に贈る宝石の代金を手にする大公殿下を『たくらみと恋』(1884 年)の第二幕第二場で描いて,その行為を痛烈に告発している。

第二場
大公の老いた侍従が宝石箱を捧げ持ってはいってくる

侍従 大公殿下よりよろしくご挨拶を伝えるようにとのことでございます。そうして結婚式のお祝いにこの宝石をお届けくださいました。これは今しがたヴェネチアから届いたばかりの品でございます。
夫人 (宝石箱を開け,驚いてあとすざりする)これはまあ!殿下はいくらお支払いになったのかしら。
侍従 (暗い顔つきで)一銭もお支払いにはなりません。
夫人 何ですって。気は確かなの。一銭もですって。(一歩侍従から離れて)まるで突き刺すような目つきで私の方を見ていらっしゃる。計り知れないほど高価なこの宝石に殿下は一銭もお支払いにならないの?
侍従 昨日7千人のくに人がアメリカに向け出発いたしました。それで支払いはすべて済みました。
夫人(急に宝石を下に置き,足早に部屋の中を歩く,しばらくの後,侍従に)どうかしたの?涙を流していらっしゃる。
侍従 (目頭をぬぐい,手足を震わせながら,恐ろしい声で)みんなここにある宝石同様に大切な人たちですのに。私の息子たちもその中にいました。
夫人 (体を震わせながら顔をそむけ,侍従の手を取って)でも無理強いではないでしょうね?
侍従 (恐ろしい笑い方をする)どういたしまして,まがいようもなく志願の人たちです。でも生意気盛りの若者が何人か部隊の正面に進み出て連隊長に,殿下はくびきに繋がれた人たちを幾らでお売りになるのですか,と尋ねました。ご領主様は連隊全員を閲兵上に整列させ,ですぎたやつらを射殺させました。鉄砲の音が鳴り響き,脳みそが敷石の上に飛び散りました。すると部隊の全員が叫びました。万歳,アメリカに進軍だ。
・・・・・
夫人 (激しく興奮して立ち上がる)この宝を片付けておくれ。宝石の輝きが胸の中で地獄の炎のように燃え上がってくるから。(侍従に向かって優しく)気をおしずめになって,気の毒な方,再び帰ってみえますよ。みんな祖国を目にできますよ。
侍従 (熱く,力強く)神はご存知です。彼らはきっと帰って参ります。市門を出てゆくとき,彼らは振り返って叫びました「妻や子よ,達者でな,領主様万歳,最後の審判の日に再び会いましょう。」2

 登場人物の紹介では「あるドイツ大公の宮廷における宰相フォン・ワルター」とあるだけでどこの国の出来事か判然としないが,シラーの脳裏には祖国ヴュルテンベルク公国カール・オイゲン大公(1728-1793)の行為が浮かんでいたであろうか。しかしながら大公はアメリカ独立戦争において英国に傭兵を提供していない。大公は英国に3,000 名の兵士提供を申し出たが,英国側はヴュルテンベルクの軍隊の装備不十分の状態を知って断ったのである。大公はプロイセン,英国がオーストリア,フランス,ロシア,神聖ローマ帝国と戦った7 年戦争(1756―1763 年)の際にフランスに傭兵を提供している。彼は1752 年にフランスと傭兵条約を締結した。大公はフランスの請求に応じて,5 連隊6,000 名の兵士をフランスに提供する義務を負ったのである。連隊編成のために1,000 名の兵士ごとに48,428 グルデンを受け取り,その上毎年64,473 グルデン,戦争時には78,507 グルデンを受け取ったが,その金銭は国会の会計を通すことなく,直接大公の懐にはいった。7 年戦争が始まるとカトリックのフランスは契約に従ってヴュルテンベルクの兵士を招集した。プロテスタントのプロイセンに対する戦争は,当然ながらプロテスタントであるヴュルテンベルク側の抵抗を引き起こした。それゆえ徴兵官リーガー少佐は徴兵の際にいかなる手段も厭わなかった。「18 歳の若者,その他役立つ者は皆兵士にならねばならぬ。畑や職人の仕事場から,家々から,果ては寝床から人々は狩り出された。日曜日ごとに教会の周囲が包囲され,そこから力づくで引きずり出された。兵役承認のサインを得るために彼らを飢餓で苦しめ牢獄に繋いだ。」3徴兵された新兵の宿舎の一つで暴動が起こったが,それは首謀者17 名をその他の新兵の前で射殺することで鎮圧された。シラーの父親はこの光景の目撃者であった,とのことである。アンスバッハでも同じような出来事があった。北アメリカに派遣する軍隊編成の時にアンスバッハ辺境伯カール・アレクサンダーの兵士たちがオクセンフルトの港で乗船するときに反乱を起こし,辺境伯の傭兵提供の契約が危うくなった時,一人の高官が輸送の指揮を引き受け,鉄砲に球を込めて乗船した。兵士全員を無事に引き渡すための行為であった。カッセルでは兵士たちは「殿下の前を賞賛すべきほど心を高ぶらせて」行進し,歌をうたった。「万歳,アメリカに行くのだ/ドイツの国よ,安らかに眠れ/お前たちヘッセンの国に捧げ銃をする/方伯様が閲兵にやってくる/さよなら,方伯フリードリヒ様/あんたは俺たちに焼酎とビールを恵んでくださる/俺たちが腕と脚を弾で飛ばされると/イギリスがあんたに補償してくれる/お前たちケチな反逆者たちよ/俺たちヘッセン兵には気を付けろ/万歳,アメリカに行くのだ/ドイツの国よ,安らかに眠れ」。
 時代は遡るが,1723 年の徴兵の様子を示すハンブルクの事例がある。それは羊飼いの若者がプロイセンの徴兵官によって無理やり徴兵された報告である。当時ヒースが生え繁り,人里離れたシュテルンシャンツェの近郊でのっぽの羊飼いが雌羊,雄羊の群れに草を食べさせていた。ある朝羊飼いが野原で仕事に従事していたとき,プロイセン王国総督ペーター・エーフェンスの指揮のもと,プロイセン徴兵官によって襲われ,捕らえられて四頭立ての馬車に押し込められた。彼はエッペンドルフ,ヴァンツベックをへてホルシュタイン州トゥリッタウに連れて行かれ,ここにしばらく滞在した。のっぽの羊飼いにすればポツダム巨人近衛兵として勤務する幸運も,明らかに魅力があるとも思えず,むしろシュテルンシャンツェ近郊の牧歌的で静かな生活の方が好ましかった。彼は機会を伺い,窓を乗り越え,夜と霧に紛れて小川や沼を渡って無事に追っ手から逃れた。背の高い市民の誘拐を,人さらい,強盗行為と位置つけたハンブルク市参事会はただちに必要な損害賠償の手続きをベルリンで取った。・・・国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世(1688-1740 年)は周知のようにこの種の違反行為に対して普段は極めて寛大であったが,この事例に厳格に対処する気になった。これと似たケースが各地でさまざまにある,とエーフェンスに対する苦情が殺到していたからである。総督は単に免職されただけでなくシュパンダウの牢獄に入れられた。4


 上で述べたように,アメリカ独立戦争時にドイツの諸侯は約3万名の兵士を英国側に提供したが,そのうち40 パーセントの兵士が祖国のための英雄的な戦死をとげた。大抵の兵士は病気,過労それに栄養失調で倒れた。戦死者の数は比較的少なかった。アメリカに輸送された時の状況もひどいものであった。兵士たちは小さな貨物船にシラミまみれでぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていた。船中では7 年戦争の後イギリスの倉庫で悪臭を放ちウジ虫の湧いたハムや干し魚が食料として提供されたのである。
 1777 年10 月17 日に2,000 名のブラウンシュヴァイク兵がサラトガ近郊でアメリカ側の将軍ゲイツに降伏した。自軍の降伏を知ったブラウンシュヴァイク大公カール二世(1735-1780 年)は,捕虜となった部隊が万一捕虜交換になった場合に,兵士を故郷に送り返すことのないよう配慮を英国国王に依頼した。彼らがかの地における悲惨な状況を語ったならば,徴兵活動に支障をきたすのを心配してのことであった。5
ドイツの兵士売却に対して鋭く反対の論陣を張ったのはフランスのミラボーであった。彼は1777 年にパンフレット『ヘッセン領民とドイツのその他の民衆に対する忠告。彼らの君主による英国への売却』の中で次のように述べた。「諸君の手に武器を与えた真の動機を諸君はご存知であろうか。虚栄の贅沢と膨大な浪費が諸君を治める君主の財政を破滅させてしまった。・・・諸君の血が腐敗の代償であり虚栄心の玩具なのである。この悪どい商売により君たちの生命でもって稼いだ金銭は膨大な負債を支払うために,また新たな契約のために使われるのである。欲深い高利貸や軽蔑すべき愛人,あるいは卑しい役者が君たちの生命と引き換えられたギニー金貨を懐に押し込むことであろう。」6 ミラボーは売却された兵士たちにアメリカ独立戦争でアメリカ側への参加を呼び掛けた。
 ヘッセンの傭兵として戦場に投入された人たちはおもに農民や小市民の子息であった。彼らは50 歳になってようやく徴兵を免除された。彼らより幾らかましな生活を送っていた市民たちは強制兵役募集を,また1762 年12 月6 日に布告された「新兵補充と徴募を国家に維持する規則」等によって兵役義務を免れていた。兵役のための徴募から解放されたのは,以下の人たちであった。「勉学に従事した人,徒弟期間終了までのすべての徒弟,ある種の農場に必要な雇人,飼育すべき群れを持つ有能な羊飼い,親方未亡人と手仕事を営む親方資格の職人,就労中の鉱夫と岩塩鉱夫,特定の工場の協力者と労働者であり,要するに農耕,工場,マニュファクチャーの不利益になるようないかなる人たちも徴兵されてはならない。」7上流,中流の市民階層や手に技術を持つ小市民は戦場に赴く必要がなかったので,領主の行う人身売買にヘッセン市民は取り立てて憤激しなかったのであろうか。
 ヘッセンの人たちはしかしながら,なぜもっぱらヘッセン領主が人身売買非難の標的にされているのか,常にヘッセンの傭兵条約履行のみが攻撃されるのか,その事に憤激する。軍事の観点からみると18 世紀全体が全く傭兵条約の世紀であった。傭兵は戦争それ自体と同じように全く通常のことであって,部隊の徴募が,しかも自国における外国国家の徴募が神聖ローマ皇帝の宣言によってドイツ諸侯に権利として承認されていた。つまりどの諸侯も自国で外国君主のために兵員を募集させる権利を持っていた8(1723 年のハンブルクにおけるプロイセンによる徴兵の例)。財政豊かな大国,フランス,英国,オランダなどは小国の集合体であるドイツに兵士調達の矛先を向けた。1757 年フランス国王はヘッセン公国に対して次のように言明した。「私はヘッセン・カッセル公国に復讐したい。公国の支配者が,フランスとイギリスの間に結ばれたセヴェン条約に参加することをドイツ帝国等族としての義務であると考えないからである。それゆえこのような不遜な態度に対しては余剰な兵力でもって立ち向かうことが必要である。」9当時の人口30 万人の小国ヘッセンにとってそれはまさに蛇ににらまれた蛙であった。
 当時の傭兵事情を見てみると,バーデン公国は1793 年9 月21 日に英国と754 名の傭兵契約を結び一人当たり23~30 ターラー新兵徴募金及び毎年21,211 ターラーが支給された。ブラウンシュヴァイク公国は1776 年1 月9 日に4,300 人に及ぶ傭兵条約を英国と締結した。それによると部隊は「ヨーロッパ並びにアメリカにおいて国王の指令に従うべき」とされた。
その他ブラウンシュヴァイク公によって1788 年2 月24 日に3,000 名の傭兵協定がオランダと締結された。この協定にはこの部隊が英国に対しても適用可能とする留保条件が付いていた。こののち1793 年3 月4 日に20,263 名の傭兵条約が英国と結ばれた。ヴュルテンブルク公国は1752 年にフランスと6,000 名の兵士を提供する傭兵契約を結び,その部隊をそのほかの同盟国に派遣する権利をフランス王に認めた。しかしながら7 年戦争勃発の際にフランス軍ポルティエール司令官がシュトゥットガルトに現れたとき,司令官は僅か3,000 名の兵士しか目にしなかった。またこれらの兵士にしても軍服や武器などあらゆるものが欠けていた。カール大公はフランスからの傭兵金を放蕩快楽のために費消し尽くしていたからである。それにもかかわらずフランスは条約をさらに6 年間延長し,12,000 名の兵士を雇用した。プロイセンも例外ではなかった。ロシアと1764 年3 月31 日及び4 月11 日に歩兵10,000 名,騎兵2,000 名を供与する条約が締結され,英国とも1788 年6 月13 日に同様の条約が結ばれた。それには歩兵16,000 名騎兵4,000 名の供与が約束された。同年8 月13 日にこの条約は次のような形で批准された。プロイセン国王は英国国王に「海上ならびに陸上において」攻撃を受けた際に上述の人数の軍隊派遣を約束し,それはあらかじめ用意された傭兵金と引き換えでおこなわれるものとした。10
 人身売買の非難を一手に引き受けたヘッセン人の無念も理解できなくもなかろう。


1 Schillers Werke, Nationalausgabe, 5 Bd. Neue Ausgabe, Kabale und Liebe, Kleine Dramen, Hrsg. Von Herbert Kraft, 2000, Vgl. Hermann Böhlaus Nachholger, Weimar S. 433.
2 Schillers Werke, Nationalausgabe Bd.5, Neueausgabe S. 50 ff.
3 Schillers Werke, Nationalausgabe Bd.5, Neuausgabe S. 434.
4 Otto Beneke: Von unehrlichen Leuten. Zweite vermehrte Auflage, Berlin 1889, S. 21.
5 L.Balet und E.Gerhard:Die Verbürgerlichung der deuschen Kunst, Literatur und Musik im 18. Jahrhundert,hrsg. und eingeleitet von G.Mattenklott, Frankfurt/M, 1981, S. 58.
6 L.Balet und E.Rebling: Die Verbürgerlichung der deutschen Kunst, Literatur uns Musik im 18.Jh.,S. 62.
7 Carl Preser: Der Soldatenhandel in Hessen. Versuch einer Abrechnung, Marburg 1900, S. 12.
8 Carl Preser, S. 9.
9 Carl Preser, S. 28.
10 Carl Preser, S. 32.

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