広島独文学会

ドイツ語圏の雑誌に関わる思い出

西村 雅樹

ウィーンで手に入れた本の中には,日の光が明るく射し込む書店の店内の様子を思い出させてくれるものがある。大小の講義室や図書館などから成るウィーン大学本部の近くには,何軒か書店があった。そのうちの一つ,並木道が続くリング通りを挟んで斜め向かいにある書店は,この通りに沿った建物としては例外的に近代的な建物だった。大きなガラス窓からは,春から夏に向かうころ,そして秋が始まるころ,日の光が柔らかく射し込んでいた。通りすがりの観光客も立ち寄る場所柄からか,専門書よりも,むしろ一般向けの書物が主に並べられている。1階から2階に向かう階段の横には,日本で言えば新書にあたる書物を収めた棚が続いていた。その中にはメッツラー叢書が並ぶ棚もあった。この叢書はある時期から,濃い青紫色の一面の地に異なる色合いの文字が浮き出る装丁となった。しかしこの当時はまだ,青色の枠が白地を囲み,その枠内に黒色で著者名や書名ならびにメッツラー社を表す馬の図柄があしらわれているという装丁だった。メッツラー叢書というと,私にはこちらの方がなじみ深い。ドイツ文学研究のためのガイド的な役割を目的とするこの叢書は,広島大学の総合科学部がまだ広島市内にあった私の留学期には,ドイツ語教室の図書室の一角にまとめて収められていた。そのことも思い出しながら,留学中手元に置いて特に役立ちそうなものを,私は何冊か買い求めた。

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Universität Wien

そのうちで最も熱心に読んだのが,フリッツ・シュラーヴェが著した『文芸雑誌――1885~1910年』と『文芸雑誌――1910~1933年』の2冊(Fritz Schlawe: Literarische Zeitschriften, 1885-1910. Zweite Auflage. Sammlung Metzler M 6. Stuttgart (J. B. Metzlersche Verlagsbuchhandlung) 1965. Fritz Schlawe: Literarische Zeitschriften 1910‐1933. Zweite Auflage. Sammlung Metzler M 24. 1973)である。この2冊の書物の初版は,第1部にあたる巻が1961年に,第2部にあたる巻が1962年に発行されている。私が手に入れたのはいずれも,その後増補改訂された第2版だった。第1部でも第2部でも共に,当該の時期の雑誌の概観がまず記され,その後「文学・芸術雑誌」「政治・文学雑誌」「演劇雑誌」というような分類の下に,個々の雑誌が取り上げられている。いずれの雑誌についても,発行時期や発行元や編集者などの事実に関する情報が記された後,各雑誌の全体を通じての傾向や文学史上の意義などについての著者の判断が述べられ,さらには,主だった寄稿者が列挙され,所蔵するドイツ語圏の図書館もわかるようにされている。
このような情報を手がかりとして,私は自分にとっての重要性を示す印を,雑誌それぞれの見出しの脇に記した。今それを見返すと,30年前と今とで,私の関心のあり方は,基本的にはそう変わらないものの多少の相違があるとも感じられる。最も重要という印をつけたのは,世紀末ウィーンの「分離派」の機関誌『ヴェル・サクルム』,世紀転換期の主要文芸雑誌『インゼル』,ヘルマン・バールが一時期編集を務めていたウィーンの『ツァイト』,ホフマンスタールも発行に協力した『モルゲン』,トラークルとも関わりの深い『ブレンナー』,ホフマンスタールの個人誌とも言うべき『ノイエ・ドイッチェ・バイトレーゲ』などである。これらの雑誌には私はいずれも強い関心を寄せ続けてきた。一方,当時は最重要とまでみなしていなかったものの中で,今の私にはそうすべきと思える雑誌として,S・フィッシャー社発行の『ノイエ・ルントシャウ』がある。
メッツラー叢書の雑誌一覧と同種のものとして,1988年にはK・G・Saur社から5巻から成る大きな書物が刊行された(Deutsche literarische Zeitschriften 1880‐1945)。1600ページ余りにわたって3341にも上る雑誌について情報が掲載されている。索引も充実しており,この種のものとして決定版的な書物だと思われる。これに比べるとシュラーヴェが著したものは,版形も小さいうえ,ページ数も2冊合わせてこの5巻本の8分の1程度にすぎない。しかしシュラーヴェが著したものには,一つ一つの雑誌について著者独自の有益な見解が示されている。その点で,この本の価値は今もって失われてはおらず,私はこれを参照することがよくある。

この本に最重要として印をつけた雑誌のうちで,留学中の記憶を一番強く蘇らせてくれるのは,オーストリアのインスブルックで発行されていた『ブレンナー(Der Brenner)』である。この雑誌は,2冊から成るシュラーヴェの書物の第2部で「進歩的文芸雑誌」に分類されている。「ブレンナー」という誌名は,イタリアへ向かうアルプス越えの峠の名に由来している。この雑誌は,トラークルの詩が掲載されたことで知られる。また,その発行者ルートヴィヒ・フォン・フィッカーはヴィトゲンシュタインとも少なからぬ関わりを持っていた。さらに,「ブレンナー・サークル」の一員には,キルケゴール論を著したテーオドール・ヘッカーもいた。ヘッカーのその著作は,言語批判の思想家マウトナーへの否定的な言辞を含むものとして私の関心を引いていた。そのようなわけで,私は留学中,『ブレンナー』に関する研究のために設けられているインスブルック大学の「ブレンナー文庫」を二度訪れた。

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Halbmonatsschrift für Kunst u. Kultur: Der Brenner

「ブレンナー文庫」で調べものをした後,インスブルックの目抜き通りにある古書店に立ち寄ったことがあった。さほど大きくはないこの街にあって,この通りは観光客もよく行き来する場所である。店に入ると,さすがに地元だ。『ブレンナー』のバックナンバーが何冊か棚に並んでいる。この雑誌に関しては復刻版が出ており,日本に帰れば大学所蔵のものを使える。しかし原物にはやはり特有の雰囲気があり,値段も手ごろだったので,私はそれらを買い求めた。「このあたりの歴史でも調べておられるのですか。」「いえ,そういうわけではありませんが。」店の主人とこのようなやりとりをしたのを思い出す。
『ブレンナー』の誌面を繰ると,1910年に発行され始めた当初はオーストリアの一地方雑誌であったこの雑誌が,徐々に文学史上の重要性を増していく様が窺われる。それを特に印象づけるのが,第2年次半ばの号の巻末に掲載された,『ブレンナー』誌主催のカール・クラウスの自作朗読会を告げる広告である。この後『ブレンナー』の巻末には,クラウスの著作やその個人誌『ファッケル』の広告が決まって載るようになる。第3年次には,クラウスについてのアンケートが実施され,トーマス・マンのものをはじめ多くの興味深い回答が掲載されている。トラークルの詩が初めて掲載されたのは,第2年次の終わりごろだった。以後トラークルはこの雑誌において最も注目すべき詩人となる。ヘルマン・ブロッホも『ブレンナー』と多少の関わりを持っていた。独特の図を配した芸術論などを,この雑誌の中に見出せる。ただしその誌面からは,ブロッホの言語思想に取り組んでいた20代半ばごろ全集で読んだものとは,多少異なった印象を受ける。
『ブレンナー』の愛読者としては,ハイデガーもその一人であったということが知られている。また『ブレンナー』の主宰者フィッカーとハイデガーの間には交友もあった。ヴィトゲンシュタインとハイデガー。20世紀の思想史を語る上で欠かすことができないこの二人に共に関わりがあったという点で,フィッカーという人物は興味深い。ちなみにインスブルックの古書店では,フィッカーが若いころ世に出した詩集も手に入れることができた。
トラークルが眠る墓地は,インスブルックの郊外にあった。「ブレンナー文庫」に勤める親切な女性の方に車で入り口まで連れて行ってもらい,私は墓地に足を踏み入れた。トラークルの墓は確かにその墓地にあった。墓の前に佇みながら,第一次世界大戦のさなか極限的な暗闇とでも言える状況にあって自ら命を絶ったともとれる死を遂げたトラークルが,そのような最期にもかかわらずキリスト教徒として墓地に葬られていることに,私は深い感銘を覚えた。白い雪を残すアルプスの山嶺は,透明な大気の彼方,青い空の下にある。墓の上の方には山々を背にして赤い薔薇が咲いている。すべてはその姿をくっきりと映し出されつつ,昼の日の光の中にあった。

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トラークルの墓,アルプスの山嶺,赤い薔薇

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