広島独文学会

留学の思い出

鈴木 将史

日本が今日の高度な学問水準を築き上げた土台が,かつての留学者達が持ち帰った欧米の科学技術・理論にあることは言うを俟たない。そうした現在,日本の研究者は以前ほど外国留学の必要がなくなったとはいうが,殊外国文学・文化研究にあっては今も以前と同様,現地に学ぶ必要は厳然として存在するであろう。私にとっても1986~88年のミュンヘン留学,及び2003~04年のベルリン留学は他に代え難い経験だった。ただ,この両留学の実感はかなり違ったものである。それはミュンヘン,ベルリンそれぞれの街が持つ特性の相違以外に,時代的相違,そして私自身を取り巻く状況の変化がもたらしたものであったが,以下にいかばかりかでも,その実態を紹介したい。
私はミュンヘンには北大―ミュンヘン大交換留学生として留学した。当時の北大独文科の院生は毎年一人ずつほぼ無条件にこの制度を利用でき,ミュンヘンで1年間学ぶことができたので,院生にとっては大変貴重な制度であった(現在は既に廃止されている)。私はこの制度で86年から渡独し,帰っても就職がなかったため更に1年私費で延長したのだが,この2年間で素晴らしいドイツ体験をさせてもらった。ただし,研究的にはそれほどの収穫を得たわけではない。そもそも独文学では,博士課程2年目程度の学生がドイツで研究生活を送っても,文献の膨大さに右往左往するばかりで,1,2年でめざましい成果を上げることは至難の業かと思われる。従ってミュンヘン時代の私は学部の学生達と一緒に講義やゼミに出ることを大学生活の眼目としていた。当時の「外国語としてのドイツ語学科」主任であるヴァインリヒ教授の講義は起承転結で構成された見事なもので,大して理解もできなかったが,「これが名講義というものか」と感じ入ったものである。ただ,留学2年目には余り大学にも行かず,半年強をかけてささやかな論文を書き,それが広大就職に役立ったのだから,学究的にも諒としなければなるまい。驚いたのはヴァインリヒ教授が2年目にサバティカルに入るというので,その補充に日本からW教授が非常勤として赴任されたことである。W先生は語学研究で知られており,私も渡独前年に北大で集中講義を受けていたのだが,この日本人教授はドイツ人学生達の興味を大いに引き,講義初日は300名入る大講義室が満員の賑わいだった。ところが先生のドイツ語は朴訥としたもので,立板に水というわけではない。講義の出席者は回を追うごとに減り(ご存知のとおり,ドイツの大学での講義は単位とは無縁である),最終回は私達日本人留学生4名だけという状態になってしまった。先生も講堂に入って来られた時にはぎょっとした様子で,「我々だけなようですから,日本語でやりましょうか」と尋ねられたが,私達の一人がおずおずと「いや先生,でもここはドイツですから」と言ったため,「ではドイツ語にしましょう」ということで,ミュンヘン大の大講義室で日本人5人だけがドイツ語でやり取りするという,なんとも奇妙な光景が繰り広げられることになった。

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München Kammerspiele

ミュンヘンでは学生達と市庁舎脇のホールでビールを飲み,オペラやコンサートや美術館に足繁く通い,バイエルン・ミュンヘンの試合を見物し(学生寮はオリンピック・センターの選手村を改築したものだったのでバイエルンの本拠地は目と鼻の先だった),ハイキングやスキーをし,マンではないが当時のミュンヘンは確かに「耀いていた」。それは私が純然たる学生だったせいもある。周りのドイツ人学生も,物好きな人は私達に付き合ってくれた。これは誓って言えることだが,同じミュンヘン大学でも「外国語としてのドイツ語学科」と「ゲルマニスティク」の学生では,日本人留学生の扱いが全然違う。前者の学生の方がはるかにフレンドリーである。(一番フレンドリーなのは「日本学科」だろうが)一方私のような留学生が親しく付き合いたいのは実はゲルマニスティクの学生なのであって,そのジレンマには終始悩まされた。日本でも,日本通の外国人に,私達はどこか身構えるところはないだろうか。ドイツ人にゲーテ・シラーの話をするより,日本文化の話をした方が,よほど「日本人らしい日本人」として尊敬されるのである。これは外国文化を研究する者の業ともいえようが,ミュンヘン留学では,ドイツ人と付き合うにはドイツ文化以前に日本文化を知らなければならないと思い知らされた次第である。
その15年後にはベルリンに留学することになった。これは文部科学省の在外研究助成金によるものである。この制度も私が帰ってきて程を経ずして廃止となった。思えば私は,二度とも大して苦労はせず,今は存在しないおいしい基金で留学してきたわけだが,特に私が奉職する小樽商大は2年までの留学私費延長を認めているので,留学に関しては非常にラッキーな環境に恵まれたといえる。普通2度目の留学も最初と関連する場所に決めるものだが,私のミュンヘン留学は学生交換制度の留学のため,場所は選べない留学である。今度は留学地が選べるとなると,私の専門であるハウプトマン研究から考えて,その第一人者と目されるシュプレンゲル教授のいるベルリン自由大学を選択したのは当然の成り行きであった。ただ今回はコブ付きで,妻と小4の息子とベルリンで暮らすことになった。この息子の就学先について,選択肢は日本人学校,インターナショナルスクール,現地校の3種類が考えられるが,日本人学校は遠い上,閑古鳥が鳴いており(1クラス4,5人しかいなかった),インターは主流だが学費が高かったため(現地駐在員の子女は大概ここで学ぶ。日本大使館員さえ,文科省出向職員以外はここである),無料の現地校に入れた。ドイツ語を全く解さない息子にとって無謀な話かもしれないが,少し解する妻が授業に同席するという条件で入学が許可され(1ヶ月後に妻が登校拒否に陥った),息子も夏学期が終わると授業についていけるようになった。いじめに遭ったりして,それはそれで大変な現地校体験だったが,ドイツの学校生活を覗き見る貴重な経験となった。同時期にやはり中国人の子供がクラスに入学してきたが,息子とドイツ語の理解力は大差ないのに,暫くして彼女は4年生から2年生に落とされてしまった。その理由を担任に聞くと,「算数をドイツのレベルまで教わっていない」からだという。日本の算数教育に感謝した一瞬だった。(因みに,PTAには,息子の教わっていた算数がドイツのレベルをはるかに先んじていたため,父親[私]は数学研究で留学していると思われていたふしがあった。)

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Professor Sprengel夫妻と筆者




ベルリン留学前には当然何を研究しようかとあれこれ思案し,ひとつの結論を出していた。「ゲルハルト・ハウプトマンの交友関係の研究」である。ハウプトマンは当時の大政治家から一介の絵描きまで,非常に多彩な人物達と交流を重ねてきたことで知られている。それらの人物の彼との関係をめぼしいところから解明したいと考え,日本では私なりに準備もしていた。そしてベルリンでシュプレンゲル教授に会い,「君は何をしたいのだ」と真っ先に聞かれたので,待ってましたとばかりに上記の研究題目を開陳したところ,「ああ,それについては去年本が出た。僕も書いているから1冊あげる」と,まるで知らない本を渡された。『ハウプトマンと同志たち』というその本には,私が調べたかったことが,はるかに詳しく調べ上げられているではないか。迂闊であった。頭の中が真っ白になったが,それから気を取り直して次の研究テーマを必死に考えた。1ヶ月かかったが,ようやく次のテーマ「ハウプトマン『祝典劇』の研究」を考え付いた。
ミュンヘン留学がカラフルなパステルカラーに彩られていたとすれば,ベルリンのそれはややモノトーンな色調に覆われている。それは,毎日が月曜から金曜まで,自宅(大学のゲストハウス)とゲルマニスティク図書室の往復であったことが大きい。食事も自宅に帰って取る。ドイツ人学生と付き合う年齢でもないし,やはり家族持ちの客員研究員として留学生活を送ると,交友関係は独身のミュンヘン時代に較べればかなり狭まった感がある。ベルリンでも負けじとオペラやコンサートや演劇に通ったが(そしてベルリンにはミュンヘンを上回る数のオペラハウスやベルリン・フィルがあるのだが),統一前の経済的繁栄を残したミュンヘンには,統一後の不況にあえぐベルリンよりも,文化行事のすべてに華やかさが漂っていた。結局ベルリン留学の主な収穫は研究面だけだったような気がする。

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Berlin Deutsches Theater

「研究面だけ」というのは不遜な物言いだろう。そのために留学しているのだから。確かにベルリン自由大学ゲルマニスティク図書室は素晴らしかった。蔵書数は20万冊にも届くのではないだろうか。ゲーテ全集はめぼしいもので6種類刊行されているが,その全てが揃う書架は壮観である。二次文献の充実も他の追随を許さない。ある論文の註に出ている書物を探す,程なくそれが見つかる,そこにある註の書物を探す,それもすぐ見つかる。そこでの註にある書物を探す,また見つかる。という具合に「文献サーフィン」が4回も5回も続けられるのである。日本なら次の文献を入手するまで最低1週間はかかり,2,3度繰り返せば日本に所蔵されていない文献に行き当たってしまう。そうするともう数ヶ月待ちの話である。日本で数ヶ月かかる文献収集が,ものの数十分でできてしまうというここの図書室には驚かされた。ゲルマニスティク棟(錆びのついた鉄板で覆われているため“Rostlaube”と呼ばれている。錆びすぎたようである)に接続して教育学棟(アルミ板で覆われているため“Silberlaube”と呼ばれている)があり,ここには更に大きな図書室があった。2005年にはこれらの図書室が合併して70万冊所蔵というとんでもないドーム型人文科学図書館が出来上がったが(この図書館は「グーグル・アース」で北緯52度27分6秒,東経13度17分17秒あたりにはっきりと確認できる),創立してから高々60年しか経過していない自由大学がドイツ1,2を争う設備を有するのは,ひとえに統一前のアメリカの惜しみない経済的援助があったからなのであろう(大学評議員には,今でもJ.F.ケネディが名を連ねている)。

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Philologische Bibliothek der Freien Universität

戦後教授陣が古本の街ライプチヒに毎週末繰り出して「棚買い」を繰り返した話は語り草になっている。だが,このゲルマニスティク図書室(GB)にも当然所蔵されていない本はある。その時は全学の図書館(UB)に行く。ここでもかなりの本が見つかる。更にない時は?その時初めてウンター・デン・リンデンかポツダム通りの州立図書館(SB)に行くのである。ここにないドイツ語の公刊本はまずない,と言い切ってしまいたくなるほどすさまじい蔵書がここには眠っている。私は今でもたまに珍しい独書を入手すると,SBのオンラインカタログで調べてみるのだが,必ずヒットする。実にしゃくである。ただ,当然のことながらSBは借り出すまでに時間がかかり,使い勝手が悪い。館外に貸してくれない(閲覧室で閲覧する)場合も多い。従って普段はGBで大抵事足りてしまうのだが,いざという時はUBとSBの三段構えで文献収集はほとんど不安がなかった。

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Staatsbibliothek zu Berlin Potsdamer Straße

こうした自由大学やベルリンの凄さが分かったのも,まがいなりにも研究を続けてきたせいであろう。大学院生時代の私では恐らくその素晴らしさはよく分からなかったに違いない。シュプレンゲル教授も凄かった。教授の自宅を訪ねるとさして膨大な蔵書はなく,研究室も質素なものだった(自由大学の教員研究室は,パーティションで区分けしたような実に粗末な造りである)。だが,時折彼が図書室で仕事をしている様子を見かけると,数多くの本をあたり一面に広げ,まさしく文献学研究の現場が持つ迫力があった。あれだけの充実した図書館を利用できる以上,向こうの研究者は自前で広範な文献を揃える必要がないわけである。研究を進めていくと,要所要所の文献にシュプレンゲルの名が現れ,先の「ハウプトマンの交友関係の研究」での一件もそうだが,私の研究の全体など教授の研究のごく一部に過ぎず,私は,自分があたかも教授のたなごころに遊ぶ孫悟空になったような気がしたものである。そして一番印象深かったのは,教授が10年以上前に書いた論文で言及された文献を彼に尋ねた時のことである。教授は「ああ,あれね」と言って,ものの15分も経たずにその文献(10枚ほどのコピー)を私に見せてくれたのである。原典はSBが所蔵しており,コピーは明らかに論文執筆当時に利用されたものだった。これには参った。私など10年以上前の論文に使った文献コピーなど,まずどこに行ったか分からない。始末しているかもしれない。ましてやあれだけの論文や著作を量産している教授が,それぞれの参考文献を,今もってすぐに引っ張り出してこられるなどということは,ほとんど信じがたい能力である。ここに私は,本国の一線のゲルマニストの実力の一端を垣間見た気がしたのである。
こうして学究的には実り多かったベルリン留学も,先述したとおりミュンヘン時代に較べれば変化に乏しく,余り楽しいものではなかった。この点からも,私は本質的に研究者の座を占めるべき人間ではないのだろう。本音を言えば,今まで一番楽しかったゲルマニスト生活は,ミュンヘンから帰ってすぐに2年を過ごした広大独文時代なのだが,今でも身近に感じ,尚も恩恵を蒙っているベルリン時代に比して,ミュンヘン時代は,もう手の届かないはるか彼方へと去ってしまった郷愁溢れる思い出となっている。

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