広島独文学会

ベルリンフィルとの共演

小島 基

 この話は結局,音楽から離れてしまいますので,それを期待してお読み下さる読者には,失望を味あわせることになります。もう35年以上も前の話で,べつに夢をみたわけでも,妄想を抱いたわけでもありません。おぼろげに残る記憶を手繰り寄せ,書いてみます。「共演」といっても,私に「共演」するだけの楽器を操る才は無論ありませんから,所謂文字通りの「共演」ではありません。
ベルリンフィルは夏休みが終わると通常,九月中旬ごろから「秋の定期演奏会」に入ります。会場は国立図書館から道路を斜めに隔てた,向いにある通称「カラヤンホール」と呼ばれる建物です。夕方,暫くぶりに始まったベルリンフィルの「演奏会」に客足は好調で,大方の人は平服で続々と入場してきていました。楽屋にいた私も時折,舞台隅から会場を見回しました。プログラムを見ますと,最初に我々の共演があり,我々一行の名前も載っています。ベルリンでは二回公演があり,翌々日に「新ナショナルギャラリー」で二回目公演が予定されています。そこでは演奏だけでなく,演舞も披露され,翌日の新聞評論では「超現代的な極東の音楽と舞」と評されました。決して「古典」ではなく,どこでも「超現代」と言う語が,新聞の寸評に踊っていました。この公演は後に報告書が書かれ,私が担当となり往生しました(新聞の切り抜きとその邦訳が半分以上でしたが)。





「カラヤンホール」での演奏会が火曜日であったことをよく覚えています。そして,その前日,月曜日が「ゲネプロ」でした。ベルリンフィルとの練習はこの一日しか予定されていません。「ゲネプロ」もさることながら,私にとって大汗をかいて,心臓が破裂しそうになったのは,その前日,即ち日曜日のことです。楽器が届かないのです。そんな馬鹿な,でも,私は知りませんでした,日曜日にドイツのアウトバーンは貨物トラックの走行を禁止していることを(35年以上前ですが!)。私は当時,東京からボンの大使館に来ていました。私が手配したことではありませんが,日曜日の貨物トラックは高速道路通行が厳禁でした。道具(楽器等)がなければ,「ゲネプロ」は当然中止,もしかすると火曜日のプログラムも出たとこ勝負か,中止か。私の頭の中は真っ白です。
 既にお気付きの方もいらっしゃいましょう,そうです,これは日本からの雅楽の,正確に言えば「宮内庁雅楽団」の一行が,文化交流事業の一環として,ヨーロッパ主要都市を巡っていて,私がたまたまその団長役を受けているということです。ベルリンではベルリンフィルとの共演で,そのために書かれた,当時ベルリン在住の日本人作曲家石井真木さんの「遭遇二番」が,秋の「定期演奏会」のプログラムの最初を飾って演奏されます。初日という所為もあってか,また,物珍しさも手伝ってか,満員の盛況でした。ホールの舞台は一寸特殊な造りになっていますが,そんな説明は不要でしょう。

一行はパリでの公演(フランス語圏の団長は別の人)を首尾よく終え,総勢30名程の雅楽団が飛行機でベルリンに向かったのです。ところが,楽器や舞台装置を積んだトラックは日曜日のため独仏国境でストップしている。動けない。そういう電話がボンの大使館に入りました。貨物トラックは日曜日,ドイツの高速道路を走れない。何と言うボン・ミス(!)でしょう。 唯一可能なことは,ボンの警察長官サイン入りの「特別通行許可証」を入手することだと分かりました。日曜日にも拘らず,その長官の自宅を訪ねました。ボン郊外にやっと家を探し当てたら,本人は自宅を新築中で不在とのこと。長官自らが自宅を新築中!警察長官が同時に大工さん!知らなかった。ドイツでは自宅を自分で建てる(勿論全てではない)ことはよくあることだ,と言われ,これも知らなかった。無情にも時間が進む。既に午後に入っている。これで万事休すか。
 文明の利器(この場合,当時は単なる電話機)と人の情けが,これほど有難いと初めて知りました。最初の部分にもありますように,楽器,舞台装置は間に合いました。結局,長官の特別電話で, 正式の「許可証」は後から送ることとし,トラックは夜通しベルリンへ走ったのです。雅楽の楽器などには大型の太鼓や長い槍や,四角い舞台を作る朱塗りの枠など,重量と面積をとるものが少なくありませんが,それらは無事,月曜日の明け方までに「カラヤンホール」に運び込まれていました。


私もそうでしたが,雅楽は音だけ聞きますと,最初はとても音を楽しむ代物と思えません。私も日本でテープを聞いた時,あの妙なる響きも,何か悪霊の甲高い雄叫びぐらいにしか聞こえません。精神的に酷く疲労困憊したことを覚えています。それでも,雅楽を「舞」と一緒に見ていますと(尤も何度も見ないと駄目ですが),私のような音アレルギー症でも,やっと少しずつ慣れてきます。成程,昔の人はこんな風に音を楽しんだのか,と少し了解できるようになります。専門家に拠りますと,雅楽はイランやイラク,つまりペルシャ方面で誕生し,中国・朝鮮を伝って渡来し,「和(古)楽」と混じって今日の日本の雅楽になったそうで,中国では既に消滅していて,韓国には残っている(後に「韓国雅楽」と「日本雅楽」の比較演奏会が東京で行われます)とのことです。従いまして,平安時代初期既に,日本にも40名を越える正規のオーケストラが存在していた! また,「宮内庁樂部」の演者はみな男子家系で,男子が生まれず養子も取らなければ,「雅楽寮」を継承できないといいます。


さて,月曜の10時から「ゲネプロ」が始まりました。私は音楽音痴(そもそも音に関して鈍感)にも拘らず,ベルリンフィルの団員が出す一つひとつの楽器の音色は,それまで私が耳にしていた音とは違い,響きがありました。ずっと鋭い響きです。こういう音が超一流なのかと音痴が感心し,そして,ホールの二列目中央で,「遭遇二番」がベルリンフィルと宮内庁雅楽との音色をどのように遭遇させているのか,興味津々で待ち構えていました。左側にベルリンフィル,右側に宮内庁雅楽団で,総勢が多くなり過ぎ,舞台の追出しを出して,そこを雅楽団の一部が占めるという具合でした。指揮者は小林氏で,作曲者の石井氏も同席していました。曲はベルリンフィル側から始まりましたが,暫く聞いていましても,フィルと雅楽の「遭遇」 - 最初わたしは勝手に,両側が何処かで同じ個所を同時に演奏する(交流する)場面を想像し,それを「遭遇」だと期待していました - がありません。結局,「遭遇二番」では,両側が別々にそれぞれの個所を演奏することで終わりました。私は,その事にちょっと意外感が残りましたが,「遭遇」(出会い)だから一つの曲の中にそれぞれが別個に存在して,それぞれ異質のままであっても当然かな,と思い直しました。しかし,「ゲネプロ」の最中,自分の役目柄,また,初めてのこと故に,私にはもっと唖然としたことが起こりました。
日本人指揮者は懸命に「棒」を振っているのですが,ベルリンフィルの演奏者たちは,途中で席を立ったり、或いは出入りしたり,隣の演者とぺちゃくちゃお喋りしたりで,これが最初で最後の練習と言うのに,随分失礼な態度を取るものだ,と段々憤懣やるかたない思いが募りました。隣に座っている太ったドイツ人にその振る舞いを質すと,いつでもそうである,自分のパーツが終われば席を立つ,初めての指揮者であれば,楽員にその傾向が一層強いそうです。「小沢」の時もそうだった,と。かれらは既に雅楽を知っているのか,雅楽演奏にも数名を除いては特に興味を示そうとしません(私はそれまで「笙」という竹管楽器が息を吸って音を出すことを知りませんでした)。誰しも認める超一流のオーケストラとはいえ,客人との共演の「ゲネプロ」では,もっと紳士的というか,協調的な態度を取ってもいい,と思える程でした。翌日,開演直前,この公演のドイツ側興行師アードラー女史が突然,挨拶にみえたとき,それ程長身ではなかったものの,まさに名前が示す如く眼光鋭い50代の短い金髪女性だったので,私の気持ちも竦んで,「ゲネプロ」の雰囲気に関する文句を,つい言いそびれました。
ドイツでは大中の都市は劇場を持ち,独自のオーケストラを所有しています。私の比較的長く滞在したバイエルン州の中都市(人口30万強程)でも劇場もオーケストラもありました。夏には「モーツアルト音楽祭」がレジデンツの庭で開催され,テレビ中継もされました。入場券を入手するのが甚だ困難だったことを記憶しています。各オーケストラはその格を持っていて,A>B>C>Dと区分され,べルリンフィルがAであることは言を待ちませんが,私のいた中都市のオーケストラはCに属していると聞きました。Cでもその町は,自分の街の劇団,楽団を誇りにしています。何しろ格安の値段(学割あり)で見聞きできるのですから,特に貧乏学生には助かります。また,団員に空き枠があれば,原則どのオーケストラも誰でも応募できるようで,当然ランクが高くなれば,それに比例した給与体系になっているとのことです。日本から少なくない楽人(既に何処かの楽団員であった日本人たち)が来ていて,その機会を狙っていました。かれらは,中世には職業修行遍歴をする徒弟が投宿した,キリスト教会の支援を基盤とするコルピングハウスのような安宿に寝起きしながら,まずはC,Dランクのオーケストラの空席を目指していました。Aランクの団員ともなれば,技術が保証されるのは無論のこと,安定的な生活も確保したということで,いずれ何処か音楽大学の教官になって余生を送るという道が開かれている,と言うことでしょうか。
宮内庁雅楽団一行は「遭遇」が終わると直ぐ,ベルリン日本総領事館の庭で行われた「日独交流」のパーティーに出席しなければならず,「カラヤンホール」の演目はその晩,たまたま「ブラームスの夕べ」で,私は最後まで席に残っていたかったのですが,それも叶わず,もう可なり肌寒くなっていた総領事館の中庭に引っ張り出され,何か心にもないことを喋らされた記憶があります。一日置いて,木曜日には「新ナショナルギャラリー」で宮内庁雅楽だけの公演が行われ,音楽と演舞があり,満員の観客は若い連中が多く,それも地べたに座るような格好で聞くスタイルであったと記憶しています。まるで,新しくて渋いジャズ演奏でも見聞きしているかのようでした。とにかく何処でも,この音は超現代的であり,素晴らしいという評価が大多数を占め,私はただ狼狽するばかりでした。しかし後に,現代作曲家のローゼンシュトック(ケルン在住)氏が,歌舞伎役者を使い『光』という長い曲を書くという副産物を産み出したようです。



我々東洋では,『荘子』の「斉物論」に従えば,人が楽器を奏でて出る音を「人籟」と言い,風が樹の枝・葉に当たって自然に出る音を「地籟」と言いますが,その「人籟」とは極力「地籟」に似せて作られているのではないか,そして,人がその「地籟」を「人籟」によって聴くのが,「天籟を聴く」と言うことなのでしょう。そこで,「音樂」とは元来,自然の音(「地籟」)を楽器によってあるがままに聴こうとするのですから,楽器も自ずと自然のもの,竹や木を素材とするのでしょう。
 竹や木を使った楽器は,演奏中に唾が溜ると,雅楽の場合、脇に置いてある炭火で乾かします。西洋の管楽器は唾を演奏者の脚元で処理しますが,例えば「笙」は唾を棄てただけでは駄目で,楽器の変形を炭火で微妙に調節しなければならないそうです。我々「宮内庁雅楽団」一行はその後,ケルン,フランクフルト,ミュンヘン,ベルン,ウイーン,チューリヒと進んで行きましたが,演奏に火を使用するのは初めてのことであるホール側には,規則で厳禁となっているので,最初は公演の中止を要求してきたり,その妥協点として,消防車が数台,劇場を取り巻くという騒ぎもありました。私も雅楽が火を使うことなど,最初は知りませんでした。私の無知が主因なのでしょうが,そのため,まだここには書かない事件もいろいろと起きました,チューリヒを最後に,一行はローマへと向かい,私の手を離れました。チューリヒからケルン・ボン空港までの私の飛行は,吐きたくなるほど揺れたのを覚えています。次の私の仕事は東山魁夷の襖絵(唐招提寺)の展示会でした。厳島の雅楽も一度見てみたいと願っています。

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