不名誉な職業---水車粉屋と亜麻布織工

福嶋 正純

森はずれの泡立つ急流のそばに立つ水車小屋,そこで製粉の仕事に励む白く粉にまみれた粉屋の亭主と手伝いのけなげな娘,あるいは賢い犬を従えて野原でのんびりと羊の群れを追う羊飼い,緑の山野にひたり,自然の恵みに包まれた生活,それはまさにロマンチックな風景そのものであろう。Franz Schubertの作品『美しき水車小屋の娘』でも森はずれにある水車小屋の娘に憧れる粉挽きの徒弟とその失恋が歌われている。
だが森はずれに小屋を構え,人里離れて製粉業を営む水車粉屋は,不吉な水車,幽霊,悪魔の出没する水車小屋などの伝説に彩られ,また髪の毛が逆立つような残忍な強盗事件,殺人事件が幾度となく起こる不気味な場所でもあった。製粉を依頼することのほかは里人は水車小屋を避けていた。悪魔や幽霊が出没する水車小屋の伝説は多い。悪魔が棲みついた小屋には夜になると,人も家畜も中に入ることができない。ある日ポーランドの熊使いが二頭の踊り熊をつれて小屋に泊った。夜中悪魔が追い出しにかかると熊が暴れまわって逆に悪魔を追い出した。ある日のこと,悪魔が水車小屋の主人に出会い尋ねた。「お前さんはあの大きな二頭の猫をまだ飼っているのかね。」主人は急いで「そうだ」と答え,付け加えていった。「あれから奴は七匹も子供を産んでね。」Nikolaus Lenau(1802-1850)の詩『森林保護官』は幽霊となって水車小屋を訪れる不気味な男を語っている。嵐の夜に鉄砲片手に猟師姿の男が水車小屋を訪れるが,それは最近森で射殺された森林保護官であった。男は「兄弟よ,狩だ,ついてこい」と真夜中の森に小屋の主人を誘い出し「みろ,ここで奴は俺を獣のように撃ち殺した」とうめくのである。
ドイツの中世において,粉挽きや羊飼いには不名誉の烙印が押されて賎視され,また中世時代以降も長く彼らは《不名誉》と見なされていた。選帝侯ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルクは1650年に同業組合加入にふさわしくない人として徴税吏,浴場職人,水車製粉や,理髪師,羊飼い,笛吹き,亜麻布織工の子弟を挙げている。これらの職業の子弟の洗礼証明書には不名誉の烙印が押された。粉屋は同業組合への加入が1577年まで組合法によって拒絶されていた。また粉屋と亜麻布織工は絞首刑が執行されるとき,領主命令によって触れるのもはばかられた絞首台梯子を提供しなくてはならなかったし,新たに絞首台を建設する時もその義務を果たさねばならなかった。
そのため1686年ハンブルクのロープ(索具)同業組合に属する一人の親方が粉屋の娘と結婚しようとしたとき,同僚は,結婚を強行すれば組合から追放すると脅迫した。この問題は市参事会に持ち出された。市参事会は合同ロープ同業組合会則に基づく組合の主張を,法律的拘束力なしと認め,粉屋の娘との結婚承認を命令し,反抗的な組合を処罰した。組合は神聖ローマ帝国裁判所に控訴したが不首尾に終わっている。
Otto Beneke(Von unehrlichen Leuten, 1889 Berlin)は賎視の理由として,森はずれに住む水車粉屋や放浪の人たちは,村落防衛の戦闘義務をもたなかったことにあるとしている。Benekeは古代ドイツの素朴な共同体にみられた武器携帯権利と戦闘参加義務によって制約された身分分割と関係している,と見ている。軍事罰令,あるいは住民罰令のもとで,村落防衛のために戦う権利を持たないもの,その義務のないものは,承認されたいかなる身分にも所属しなかった。粉屋も羊飼いも戦時であろうが平和時であろうが故郷の土地にしばりつけられて,戦場に赴くことはとてもできなかった。さらに旅暮らしの人たち,つまり旅回りの道すがら腕前を披露して口銭を稼ぐ剣術士,曲芸師,楽師なども不名誉の人たちとされた。彼らが村落防衛の義務を負うこともなく,そのうえ金銭を求めて技能を披露したことが名誉喪失の根本原因というのである。

昔から製粉屋は穀物泥棒と陰口された。
どんな製粉屋も挽き粉をそっくり渡しはしない
一部は奴のふところにないないだ

と職人の不品行を嘲笑する歌は昔から伝えられている。

粉屋は国中一番のブタを飼っている
そのたいていは農民の袋から取り上げたもの

粉屋には「種を撒かないところで収穫する」と風評がたち,粉屋のかすめとりにたいする農民の苦情は多かった。そのため不正行為に対する搾取防止のために法律まで制定される事態までになった。ウルムでは粉屋にはブタ三頭の飼育のみが許可された。鶏にたいする数量の規制はなかった。そのため家禽は溢れるばかりの穀物をついばみ,「粉屋の鶏が一番の大物」の格言通りとなった。ハンブルクでは1577年に都市水車粉屋は屋敷内で羊,ブタ,鶏を飼ってはならない,と市当局から命令が出された。
 だがこのような粉屋の悪評判の大部分は集団妄想とWerner Danckert(Unehrliche Leute, 1963 Bern und München)は考える。彼は粉屋を排除する真のモティーフは隠蔽され,排除され,忘却されている,と主張する。彼によると水車小屋はキリスト教布教以前にゲルマン人によって行われた男たちの結社の集会場所であった。つまり古代ゲルマンの祭祀,習慣がキリスト教普及以後も残存し,隠蔽されて守られてきた場所,結社の裁きの場所に隣り合ってまた水車小屋があったと彼はいう。水車小屋は - 教会,修道院,国王や領主の館,免税地,賦役領地,ある種の家屋,耕地,庭園と並んで - 逃亡中の犯罪人にとって安全な避難所,アジールであった。そのことは昔の水車小屋の神聖さを暗示している,と彼は考える。水車小屋に昔から避難所の性格がまとわりついていることは,しばしば国王や領主によって確認され,この場所に逃げ込んだ人を誰しも裁判なくして連れ出すことはできなかった。避難所はすべてタブー視された場所であった。
また水車小屋はここで穀物に死をもたらす場所である。つまり成長霊の殺害である。春に種を畑に撒けば,やがて種は芽を出し秋には実りをもたらす。その種を粉挽きはギーギーときしむ石臼で摩り下ろして粉に変える。それは素朴な人たちの心には穀物の殺害と同じことを意味する。粉挽きの仕事は人の命を職業として奪う死刑執行人とさほど遠くないと,素朴な人たちが考えても不思議ではない。また水源も知れぬ深い森から流れてくる四大要素の水を自在に扱って製粉を行う粉屋は何か神秘の力を備えた人,異能の人,畏怖の対象でもあった。彼は水という神聖な基本要素を水車小屋で捕え,責めさいなみ,水車の上に編み込むのである。水車小屋に住まうものは虐待された水の復讐を恐れねばならなかった。たびたび起こる水車小屋の火事も - それは穀物粉塵爆発であろうが - 粉屋に対して迷信的な恐怖を掻き立てた。

さらにまた水車小屋は売春の場所でもあった。1483年のハンブルクの裁判は,娼婦を三つの範疇に分けている。街路売春,浴場売春それに水車小屋売春と。ドイツの多くの都市には今日でもなお「水車小屋通り」,つまり売春宿通りがある。すでに16世紀に言及されているマインツの港に近い古い売春宿の名前は「水車小屋入り口」であった。パリのキャバレー「ムーラン・ルージュ」もその名残,とDanckertは示唆している。

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パリのキャバレー「ムーラン・ルージュ」

そうであれば粉屋の主人は売春宿の亭主ということになる。このようなさまざまに重なり合う要因によって粉屋は不名誉の誹りをうけ,神聖ローマ帝国警察法令によってたびたび(1548年,1577年)名誉回復がなされたにもかかわらず,不名誉の誹りは長く続いた。
同じように亜麻布織工もまた不名誉な賎視と破門の状態にさらされた。およそ1300年ころから亜麻布織工,粉屋,羊飼いの子弟を靴職人,金細工師,精肉業などの同業組合採用の禁止例が山積した。1300年9月6日のブレーメン靴職人組合の古文書では,亜麻布織工と荷物運搬夫の子弟を靴製造職場で教育することを禁じている。このような差別は18世紀になおも続いていて,1725年にリューベックの指物大工職人が酒場で

すんでのところで俺は亜麻布織工となるとこだった
ほとんど織工になるとこだった
だが俺が恐れたのはひどい評判…

とざれ歌を唄ったとき,侮辱された織工たちは指物大工職人を告訴し,名誉回復宣言を獲ち取った。だが蔑視は相変わらず続いた。なぜだかその理由は明白ではないが,亜麻布織工たちは粉屋と同様に絞首台梯子を提供することが領主から義務付けられていた。それゆえ彼らを嘲笑する歌が数多くみられる。

亜麻布織工は素敵な組合を持っている
あそこの絞首台のそばで組合集会を開いている

1671年に敷布織工と亜麻布織工がベルリンの選帝侯のもとに,自分たちが絞首台の梯子を運ばなければならない,この理由で人々から侮辱を受ける,と苦情の申し立てをしたとき,「亜麻布織工が絞首台の梯子を運ばねばならないことで,彼らを蔑視しないよう」にと勅令が出された。だが長年汚名を世間に植え付けてきた古来からの義務を彼らから免除することを君主は毛頭考えなかった。なぜ亜麻布織工は「不名誉」と宣言されたのか。Danckertはキリスト教改宗後の古い時代に織工たちが,何らかの方法で宗教上の儀式,供儀(殺害)に協力していたのではないか,と考える。彼は解明の手掛かりとして民謡を探っている。

亜麻布織工は素敵な組合を持っている
四旬節の中日に奴らは集いあう
灰色、紺色で集まってくる

またほかの歌では

亜麻布織工は素敵な音楽を奏でてる
まるでごみ車が20台も橋を渡っていくような

Danckertはこの四旬節の会合の裏に,ゲルマン時代の大昔に行われた織物工の女神を祭る船車行列への薄れた記憶と,それに結びついたどんちゃん騒ぎの儀式が隠れ潜んでいる,と見ている。織物工のひどく騒々しい演奏は,ニーダー・ライン地方におけるかつてのインダの春船のまわりで夜遅くまで行われる歓喜の雄たけび,歓喜の歌,舞踊を思い出させる,と彼は言う。船車はインダ近郊の森で農夫たちによって作られた。船車はまずアーヘンに向けて引き出されそれからマースリヒトへ向かった。船車はどこでも集まってくる民衆によって歓迎され,道案内された。歓声と歌声の中で民衆は夜を徹して船車の周りで踊りまくった。亜麻布織工と羊毛織工はこの船車の選ばれた随員であった。無軌道で野性的なこの行列は12日間続いた。船車は今日でもなおライン地方の謝肉祭に登場する。インダの春船行列における織物工の随行は疑いもなく古く,また本源的な要素を持っている,とManhardtは言う。「おそらく彼らは10世紀,あるいは11世紀の自分たちの職業に対する栄誉として古代の習俗の中で綱引きと儀仗兵の役目を得ようと努力したのであろう。」すでにゲルマンの時代に女神の祭式の車を曳き,また見張りを務めた織物工が,何らかの形で女神の死の祭式(供儀)にかかわったとDanckertは考える。その供儀の場所が,時代の変遷のうちに処刑の場所となった。亜麻布織工が集い合い,儀式を執り行ったその場所に,彼らは何らかの儀式の舞台を提供することになったのではないか。
さまざまな精霊,特に水の霊についての伝説は,彼らが亜麻布の衣服を洗い,漂泊する内容を伝えている。小人や森女は亜麻布でできた衣服を着ているし,水の霊から贈られた亜麻布はいくら使っても尽きることはない。また亜麻布には病気を治癒させる力があるとされ,死者も亜麻布でくるんで埋葬された。精霊や死者とのこのようなつながりがまた亜麻布織工を賎視する理由にもなったのであろうか。ドイツ俗信辞典は,亜麻布織工は,中世において地方の不自由民によって営まれたことによって,賎視されたと述べている。

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