博士論文を終えて

伊藤 亮平

 2006年3月、中世ドイツ抒情詩ミンネザングをテーマに修士論文を書き終えた私が感じていたのは、中世ドイツ文学に対する情熱ではなかった。大学院を修了したにも拘らず、さして高度な専門知識や研究遂行能力を身に着けることができなかったのではないかという、憮然とした焦燥感だけが燻っていた。そして、その原因はただ単純に己の怠慢に因るものであり、博士課程後期への進学は、これまでの生活態度を改めるための、ただの反省の弁に過ぎなかった。私はまだ幼かったのだと思う。
このように私の博士課程後期の院生生活は、進学動機からして既に危うさを孕んでいた。そして、この危うさは早くも現実のものとなった。進学時、朧げに描いた私の淡い研究計画や人生設計は、諸事情も加わって、わずか半年でとん挫し、 2 年目に崩壊した。
 無論、その間にも、ただ手をこまねいて、己の境遇を徒に嘆いていたのでも、周囲の状況をただ安穏と静観していた訳でもなかった。高等遊民を気取るに、私はあまりに気が小さすぎた。私は年 1回の研究発表と 1 本の論文執筆、また毎日 1 本の論文を読むことを自らに課した。日本独文学会、広島独文学会、日本独文学会中国四国支部、入れる学会には全て入会した。研究発表会には、リクルートスーツに身を包み、全てに参加した。そして、何故か 2 年目の夏休みに学部 2 回生たちに紛れて企業のインターンシップに参加したりもした(これはこれで楽しかったが)。
 こうして、院生生活 3 年目が終わろうとしている3月上旬、私は力尽きた。これまで己にマイルストーンを課し、我武者羅に勉強してきたつもりだった。しかし、ある時、ふとしたきっかけでそれらが全て否定されたように感じ、何より私自身がそれらを一切否定した。そして私は確信した。中世ドイツ文学を研究する「才能」も「能力」も「興味」も、私はそのどれも持ち合わせていなかったのである。
 その後 2 年間、私は論文に取り掛かることが全く出来なかった。これまで書いてきた論文を一瞥してみると、全てが陳腐で嘘くさく、論文と呼ぶに堪えない感想文のように思われた。当時の私は、勉強しているようでいて、「いつ辞めるか、辞めてどうするのか」、ただそればかりを考えていた。引き際を求めながら、持ち前の優柔不断で結論を先送りし、「あと 1 年かけて書けなかったら、今度こそ辞めよう」と自分に言い聞かせるものの、その 1 年が来ると、「今度こそは本当に」と思いつつ、結局留年を繰り返した。世にいうモラトリアムであった。
 この 2 年間何をしていたのか、このエッセイを書くにあたり、ふと思い出そうとするのだが、思い出そうとするほどに何も思い出せない。おそらく上記のような自己憐憫にでも浸っていたのだろう。生来、私の性格は暗い。
 変化の兆しが見え始めたのは 2011 年頃であろうか。この年に、私は松山大学での非常勤講師の話を頂き、ありがたく引き受けることにした。学生を前にした自己紹介で私は、「今は広島大学の博士課程後期に在籍し、博士論文を書いている最中です」と、とりあえず吹聴した。無論、それはただの見栄に過ぎなかった。論文には未だに手を付けていなかった。しかし、新生活に心躍らせる学生たちの瞳を前に、私は己の虚栄を恥じ入った。一介の非常勤講師とはいえ、いやしくも教壇に立つ身、嘘は許されぬ。そんな大仰な決意を胸に、私は博士論文の再開に着手した。
 では何について書くか。卒論では、ミンネ歌人ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ Walther von der Vogelweide を少しかじった。修士論文ではヴァルターとラインマル・デァ・アルテ Reinmar der Alte との文学論争を扱った。これまで散発的に書いてきた「論文」は全てラインマルを中心に扱っている。とはいえ、ラインマルに対する思い入れは特にない。好みから言えば、ハインリヒ・フォン・モールンゲン Heinrich von Morungen のリートの方が良い。しかし、これまでモールンゲンを扱ったことはなく、これから新たな歌人に取り組むことは時間の関係上憚られた。これまでの経緯を振り返ってみても、博士論文ではラインマルを扱うのがやはり妥当であろう。この選択は、計画的と呼ぶにはいささか打算めいた感があるのは否めないものの、我ながら順当のように思われた。
 ラインマルを扱うことに決めたのは良いが、この時点で何か明確なテーマを思いついていたわけでもなかった。そこで、まずはリートを読まねば話になるまい、読めば何かアイディアが浮かぶのではないか。そう考えて、とりあえずラインマルのリートの訳に挑戦する日々を送ってみた。そして、偶発的なひらめきが我が身に降りかかることを心中密かに期待した。



  
ラインマル・デァ・アルテ(ハイデルベルク大写本より) (ハイデルベルク大写本  Die große Heidelberger Liederhandschrift は以下のサイトで閲覧することが出来る。  "Universitätsbibliothek Heidelberg, Cod. Pal. germ. 848 Große Heidelberger Liederhandschrift(http://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/cpg848)

 しかし、待ってはみたものの、案の定何も思いつかなかった。リートを読み進めていくうちに何か見えてくるのではないか、という希望的観測は、読み進めることができる者のみに許される楽観性であることに私は気づいていなかった。基より私は中世高地ドイツ語の読解力が乏しい上に、ラインマルのリートは殊に難しく、とても私の手におえるものではなかった。選択は失敗だった。しかしすでに後戻りするだけの時間も心の余裕もなく、ラインマルに取り組むより他に選択の余地は私に残されていなかった。もうラインマルで書くしかない。そう思った時、半ば諦めの中に微かな決意が入り混じるのを私は感じた。これが背水の陣というものなのだろうか。胸を張ってそう言えたらよいが、実際は川を背にして陣を張る前に川中に落ちていたと言った方がより正確だった。川中の私はもがくことを諦め、ひとまず流れに身を任せることにした。

 ところで、ラインマルは如何なる人物だったのだろうか。ラインマルの伝記などはないので具体的なことは分からない。しかし、ラインマルに関して証言を残した有名な歌人が二人いる。一人は宮廷叙事詩『トリスタン』 (Tristan) を著したゴットフリート・フォン・シュトラースブルク Gottfried von Straßburg 。もう一人はラインマルの弟子とされ、今日中世最大のミンネ歌人とも評される、ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ。ゴットフリートは、『トリスタン』の中で、ラインマルを「ハーゲナウの小夜鳴鳥」 (diu(=nahtegal) von Hgenouwe 4777 行 ) と呼び、その歌声を「オルフォイス( ギリシア神話に登場する竪琴の名手 )の舌」 (Orphêes zunge 4788 行 と賛美している。ただ、ゴットフリートが『トリスタン』を書いた頃には、ラインマルは既に故人だったようである。ヴァルターはラインマルの死に際し、ラインマルに捧げた哀悼歌を2篇残している。これだけ見れば、ラインマルは当時より偉大な歌人として尊敬の念を集めていたかのようである。


ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク(ハイデルベルク大写本より)

 ところがゴットフリートは、故人に思いを馳せているのかと思いきや、「私が言っているのは、彼の甘い美しい調べのことであるが」( ich meine ab von ir dœnen den süezen, den schœnen 4783-4 行)と述べ、何やら含みを持たせた言い方をしている。ヴァルターに至っては、哀悼歌の中で、「あなたのことを嘆くつもりはない、 / あなたの巧みな技が失われたことを嘆いているのだ」 (dich selben wolt ich lützel klagen: / ich klage dîn edelen kunst, daz si ist verdorben. L 83, 1: 5-6 行 ) などと述べ、本当に哀悼する気があるのかどうかも疑わしい。この二人は、あたかも、「彼の歌は素晴らしいけれども … 」とでも言いたげである。


ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ (ハイデルベルク大写本より)

 では、ラインマルのリートはどのようなものなのか。彼のリートの特色としてしばしば挙げられるのが、モノトーンでメランコリックな色調、「高きミンネ」にまつわる内省と逡巡である。彼は報われない愛について、延々と嘆きを繰り返す。このようなリートの内容からして、彼が陽気な性格でないことはほぼ間違いない、そう私は勝手に決め込んでいた。仮にラインマルが私の思い込み通りの人物であるなら、果たして彼は宮廷でうまくやっていけていたのだろうか。ひょっとすると彼は、歌がうまく、宮廷でそれなりの地位を獲得していたものの、気難しい性格故に周囲から孤立しがちで、友人すらいなかったのではないだろうか。そんなことばかりが気にかかる。そこで、歌謡の世界で描かれる歌人と聴衆との関係を中心に扱うことにした。
 こうして、ようやく再開した博士論文執筆であったが、相変わらず作業は遅々として進まず、私もラインマルの如く嘆きの内に過ごす日々が続いた。日がな研究室に籠り、パソコンの前に座すものの、始終画面を眺めては朦朧としていた。乱雑に積み上げられた机上の参考資料は、その本来の責務を全うすることが出来ず、研究室の美観を損ねるのに一役買っているに過ぎなかった。私は点滅するカーソルをただ見つめ、ふと思い出したように、ぽつりぽつりと書いては嘆息した。単調な生活とは裏腹に心は荒む一方であった。
 そんな牛歩の日々を送るうちに、どうにか枚数だけは増えていった。「塵も積もれば山となる」ということわざに依ると、日々の積み重ねはいつか花開き実を結ぶらしい。しかし、惰性と怠惰でできた私の博士論文は、実を結ぶには程遠く、いびつな形を残したまま私の手中に乱座していた。ならばいっそ塵芥に帰する前にと、 2012 年 11 月末、私は「ラインマル・デァ・アルテ研究―「嘆き」・「聴衆」・「沈黙」を中心に―」という題目で博士論文を提出した。
 その後、例年通りの師走のきぜわしさに飲まれ、深まり行く厳冬の気配に気を留める間もなく、 2013 年 2 月 18 日に公開審査会と口頭試問を迎えた。
 この日は、私の性格に合わせたかのように、薄暗い雨が降っていた。そして、相変わらず私は、当日になってもレジュメの作成を終わらせることが出来ず焦っていた。公開審査会が開始される 30 分ほど前、何とかレジュメを印刷し終えることができたものの、この時点ですでにかなりの体力を消耗していた。公開審査会と口頭試問を乗り越えることが出来たのは、審査会に足を運んでくださった方々と審査員の方々のおかげであった。そして 2013 年 3 月、私は学位を取得した。
 博士論文を書き終えて思うのが、ここまで続けた理由は何だったのかということである。意地になっていたのは間違いない。一体何年間、博士課程後期に在籍していたことか。 5 年目あたりから私は数えるのを止めた。
 学位記を目の前にして、ふと進学した時の事を振り返ってみる。当時の燻った感情や焦燥感は、紆余曲折を経て、結局また袋小路のただ中にいる。本当にこのままドイツ中世文学を続けていくのか。それを明言できずにいる私は、未だに年不相応の甘い考えを捨てきれていない。
 ただ、口頭試問での質疑応答を、私は不思議と「楽しい」と感じていたことは事実である。審査員の方々の貴重なご意見を拝聴できる機会に恵まれたことを私はありがたく思い、これが口頭試問の場であることを危うく忘れる所であった。
 ひょっとして、私はドイツ中世文学に「飽きていた」のではなく、本当は「飢えていた」のだろうか。それを知るには、またドイツ中世文学に身を投じねばならないだろう。せめて、「感想文」ではなく、「論文」が書けるようになるまでは。

 最後に、指導教員の小林英起子教授を始め、副査を務めてくださった先生方、独文研究室のメンバーたちにこの場を借りて深くお礼申し上げたい。

<< 広島独文学会ホームページへ戻る

 

 


inserted by FC2 system