研究、演劇、ベルリン三昧          

北川 千香子

  はじめてベルリンを訪れたのは2001年の冬だった。ベルリンの劇場を巡るための短期滞在で、アレクサンダー広場の目の前の、味も素っ気もないアパートで3週間ほど過ごした。ああ、ここに長くは住めないと思った。太陽が顔を出す時間は短く、空はいつもどんよりと曇り、だだっ広い更地や廃墟さながらの建物の間から、冷たい風が吹きすさぶ。寒々しくて、殺伐としていて、すべてが灰色と茶色に見えたものだった。
 再びこの地で暮らすことが決まったのは2008年。その年は私にとって、次から次へと大きな出来事が続く激動の一年で、そのうちのひとつが、ドイツ学術交流会(DAAD)の給付留学生として、ベルリン自由大学で研究する機会を得たことだった。8年を経て再び訪れたベルリンは、すっかり雰囲気が変わっていた。以前滞在した場所からトラムで数駅しか離れていない旧東ベルリン地区にアパートを借りたのだが、以前と比べると様相は変わり、きれいでしゃれた街並みになっている。とはいえ、旧東ベルリンはいまだに工事現場だらけ。少し郊外に行けば廃墟もそのまま放置されている。それでも、とても居心地がよかった。ほどよく混沌としていて、なんというか「空気が自由」という感覚。それは、この街がずっと現在進行形だからなのだろう。8年前の私は、こういうベルリンならではの味わいと独特の魅力を感じるのには若すぎたのかもしれない。
 こうして、2009年4月から2015年の2月までベルリンで過ごすことになった。この間の学びと経験は、間違いなく私の人生を決定づけるものとなった。そのすべてを書き尽くすことは到底できないが、その一端を綴りたい。

 「ドイツでワーグナーを研究して博士号を取得する。」友人や同僚にこう宣言したとき、「蛮勇」とそやされてしまった。それでも私は、ドイツで研究するのだと言い張って留学を決めた。私の専門は演劇学で、特にワーグナーのオペラをテーマとしている。ぜひ本場ドイツでワーグナーを研究したかった。さらに、ベルリン自由大学の演劇学研究所では、著名な学者や新進気鋭の研究者たちが最先端の研究を行っている。きっと多くの刺激と学びがあるだろうと思ったのだ。
 いざドイツで研究を始めてことの重大さに気づいた。やはり蛮勇行為だったかな…と弱気になることもあった。ワーグナーに関しては膨大な先行研究があるし、2013年はワーグナー生誕200年で、その年は次から次へとワーグナーを特集する書籍や雑誌企画、シンポジウムなどが行われ、研究書や論文が大量に出版されていた。文献を読むには、当然ドイツ人よりも数倍の時間がかかる。読んでも読んでも追いつかない。
 苦労したのは文献の処理だけではなかった。博士論文に見合うドイツ語力、アカデミズムの場で議論するための語学力、そして、対等に議論するための積極性が足りないことを、何度も痛感させられた。控え目や奥ゆかしさといった日本的な美徳は、ドイツのアカデミズムの中では通用しない。相手の主張や質問を正確に捉え、それに対して自分の考えをドイツ語で的確に表現しなければならない。こういった部分をずいぶんと鍛えてもらった。
 ベルリン自由大学では、演劇学と音楽学の2人の教授が指導してくださった。授業以外にも、双方の先生のコロキウム(院生のゼミ)に参加した。この二つのコロキウムに参加できたのは貴重だった。というのも、同じ音楽劇(Musiktheater)を研究対象としながら、全くアプローチが違うということを目の当たりにできたからだ。音楽学では楽譜が、演劇学では舞台や上演が考察の中心になる。音楽学の立場では、上演はあくまで楽譜(音楽)がなければ上演は成り立たず、従って上演は副次的なことであるとし、演劇学の立場では、オペラは上演されることではじめてオペラとなるのであって、楽譜は上演を成り立たせるための一要素でしかないとする。つまり、重心の位置が正反対なのだ。この二つの原理の狭間で、当初私は戸惑った。
 初めてこのコロキウムで研究発表をしたのは、留学して3ヶ月足らずの2009年7月。鋭い質問が直球で飛んできた。批判的なコメントもあった。普通の質問でも、緊張していた私には厳しい意見のように聞こえたのかもしれない。頭の中が混乱し、たじたじになってしまい、質問に答えられなくなってしまった。その後、指導教授との面談で、その時の気持ちを素直に打ち明けた。「頂上の見えない、高くそびえ立つ巨大な山を前に、今は、ただ呆然と立ち尽くしている感覚です…。」すると、教授はこうおっしゃった。「学問に頂上はないんですよ。一本道を探ったり、その道を迂回して別の道を分け入ったり、その山の脇を通ったりしながら、山を登っていこうとすること、それが学問です。研究者たちは、その山を登るために自分自身の道を見つけて、歩んでいくのです。」その道を見つける手助けをするのが指導教授の役目、とのことだった。初めてのドイツでの研究発表で、この言葉が一番の収穫だっただろう。研究は自ら自分の道を探りながらやっていくしかない。当たり前のことだが、それをあらためて認識し、ここからようやくベルリンでの本当の研究生活が始まった。
 教授はこうも言われた。「私は指導教授ではあるけれども、あなたの研究テーマについてより多くを知っているわけではないし、私が指示を出してそれにあなたが従う、という関係でもない。むしろ一緒に考える立場であって、その意味で同僚なのですよ。」そうか!だからコロキウムでも、学生たちは教授と同じ目線で、意見をがんがんぶつけ合い、白熱した議論を展開するのか。時々白熱しすぎて喧嘩になるのではないかとひやひやしたこともあったが、議論が終わるとお互いにけろっとしている。
コロキウムに参加している人たちは年齢も国籍も職種も多種多様だ。博士論文や修士論文を書いている学生が中心ではあるが、歌手、ドラマトゥルク、指揮者、演奏家など、音楽や演劇の現場でプロとして活動している方々も参加していた。おかげで現場での体験や舞台裏の話を聞くことができてとても興味深かった。コロキウムでは、学生の研究発表だけではなく、招聘研究者による講演を聞いたり、参加者全員で劇場へ行き、上演やリハーサルについて議論することもあった。議論に正解はない。だから参加者はみな自由に討論する。特に演劇学のコロキウムでは、学生が教授に対しても堂々と反対意見を積極的に発言する。先生も学生も区別なく一緒に考える集団と化していたのは、私には大変新鮮だった。
 研究は最終的には孤独な作業だ。完成まで決して平坦ではなかった道のりの中で、同僚の存在は大きかった。勉強会をしたり、研究発表に対して相互に意見を出し合ったり、学会やシンポジウム、また面白かった公演などのイベント情報を交換したり。コロキウムの参加者は、イタリア、ロシア、ポーランド、アメリカ、ギリシア、台湾、韓国の人たちなど、国際色豊かだった。ドイツ語を母語としない彼らとは、同じような苦労を共有でき、お互いに励まし合えた。
 ベルリンは研究にとって実に恵まれた環境だった。まず研究機関、そして図書館の充実だ。ベルリン自由大学(FU)、フンボルト大学(HU)、ベルリン工科大学(TU)、ベルリン芸術大学(UdK)などの他、10以上の専科大学や単科大学がある。それぞれ大学は総合図書館を持っているが、学科によってはさらに専門の図書館を備えている。またベルリン市立図書館がそれぞれの地区に設置されており、書籍のみならず、視聴覚資料や楽譜も貸し出している。登録さえすればどの図書館でも利用できる。いずれかの図書館に行けば、よほど特別な文献でないかぎり、探している資料は必ず手に入る。ワーグナーに関する古い文献をわざわざバイロイトのアーカイブまで閲覧しに行ったのだが、ベルリンに帰ってきたら、フンボルト大学の図書館の書庫にも所蔵されていることが分かって拍子抜けしたことがある。私がよく通ったのはウンター・デン・リンデンとポツダム広場にある国立図書館だ。前者は2013年に改装工事が終わり、開放的で明るく、最新の設備を備えたモダンな内装になっている。フンボルト大学の付属図書館であるグリム・ツェントルムもよく利用した。平日なら朝8時から夜12時まで開いているので、観劇が終わってからちょっと図書館へ立ち寄って帰宅なんてこともできた。日本ではおそらく考えられないだろう。
 私の研究は、バイロイトと強く結びついている。ここには、ワーグナーが自らの作品を上演するために建てた劇場、バイロイト祝祭劇場(Festspielhaus)がある。ここで初演された、ワーグナー最後の舞台作品《パルジファル》が博士論文のテーマだった。着想を得たのは10年前に遡る。2005年に初めて訪れたバイロイト音楽祭で、クリストフ・シュリンゲンジーフ演出、ピエール・ブーレーズ指揮の《パルジファル》の上演に立ち会い、衝撃を受けた。静謐なキリスト教世界と、アラビア風の異教的世界が舞台であるはずなのに、舞台はなぜか一貫してアフリカの奥地、原住民の集落と化している。聖杯の代わりに登場するのは地母神を模した、巨体の黒人女性。そして、台本にはない、それぞれ個性的なエキストラが大勢登場する。それに、主役の出で立ちはめまぐるしく変化し、さらには複数の分身まで出てくる。舞台上で何が起こっているのか分からず、唖然とした。しかし同時に不思議な魅力に取り憑かれた。この作品はいったい何を語りかけているのだろうか。これが研究の出発点となった。あの時のショック体験がなければ、博士論文は生まれなかったし、研究の道に進むこともなかっただろう。その後、バイロイト音楽祭で働く機会を得、何度も繰り返し同じ演出を観て、観客や同僚たちと、バイロイトの地ビールを飲みながら演出について何時間も話したものだった。


バイロイト音楽祭のスタッフとして
(筆者は最前列右から2番目)

 博士論文が完成したのは、予定していたよりも1年ほど遅れて、2013年8月。論文を提出したのも、バイロイト音楽祭の開催期間中で、ちょうどバイロイトに滞在していた私は、そこからベルリン自由大学に論文を送ったのだった。郵便局を出て真っ先に向かった先はヴァーンフリート邸。ここにあるワーグナーの墓に報告とお礼参りをしたかったのだ。薄暗くなりかけた夕刻、ひとりでしばらく墓の前にたたずむ。小雨の降る中、バイロイトでの出来事のあれこれに、静かに思いを馳せた。


バイロイトのヴァーンフリート邸

 博士論文の公開審査(Disputation)はその4ヶ月後に行われ、ぎりぎりセーフで博士課程を2013年の内に修了することができた。ワーグナー生誕200年の記念イヤーに、期せずしてワーグナー・フィーバーの波に便乗してしまった。公開審査には、私の友人たちが駆けつけてくれて、全部で30人ほどが集まった。公開審査の委員は主査と3人の副査、それに議事録を取る係が1人。発表は心臓が口から飛び出そうになるほど緊張し、鋭い質問に、私だけでなく聴衆の方々も手に汗を握った。そして、それらをクリアし、無事に合格できた。
 その後は出版のために延々と校正作業。ドイツでは、博士論文を出版しなければ博士号は授与されず、それも2年以内という期限つきだ。その間に、出版社と契約をし、出版助成を確保し、最終チェックをしなければならない。グラフィックの専門家とのやりとり、出版社とのやりとり、修正作業…留学の最後の1年はその繰り返しだった。こうして、論文は2015年に刊行された。初めて本を手にした時、ずっしりと重みを感じた。それは本の重量ではなく、その中に詰まった年月、その中での経験や思い出の重みだ。やりきった、という実感がはじめて沸いた。


頭試問を終えて、審査員と記念撮影

 私の研究ではオペラの現代演出が特に大きなウェイトを占めている。ベルリン留学中、理論、実践の双方の面からオペラ演出にアプローチできたのは、かけがえのない体験だった。
 現代演出を研究するのに、ベルリン以上に理想的な街はないだろう。まず、ここにはオペラ劇場が3つある。オーソドックスな演出を大事にする劇場、前衛的な演出に特化する劇場、世界的なオペラ歌手を目玉とする演目を組む劇場などがうまく棲み分けしている。東西統一によってベルリン市は3つのオペラ劇場を抱えることになり、一時は統合の案も出た。しかし今では、劇場がそれぞれ独自色を打ち出しながら差別化をはかり、しのぎを削っている。私がよく通ったのは、旧東ベルリンにあるコーミッシェ・オーパーだ。ここではインテンダントであるバリー・コスキーをはじめ、ハンス・ノイエンフェルスやカリスト・ビエイトといった演出家たちが活躍し、独創的で刺激的なオペラ演出が観られる。物議を醸す演出も少なくなく、私が立ち会った上演でも、罵倒を浴びせながら、中にはドアに八つ当たりして途中退席する人が続出し、客席は騒然とした雰囲気に包まれることがあった。演者が立つ舞台だけでなく、客席もまた舞台の一部であり、すべてひっくるめて上演空間なのだと肌で感じた。これはDVDやCDでは決して味わえない。
 それ以外にも大小数多くの劇場があり、時代の最先端をいく、実験的な試みが盛んに行われている。それに、学生なら1,000円くらいでチケットを買える劇場が沢山ある。オペラを既存の枠では捉えず、そこから全く新しいものを作ろうとする試みを多くの劇場で観ることができ、見るたびに新鮮な驚きがあった。場所もさまざまで、近年では、食堂や倉庫、旧発電所などの廃墟を劇場空間として使うオペラ上演も増えている。
 オペラではなく演劇を主とする劇場でも、音楽劇の上演は珍しくない。むしろ、ここ数年増えているようだ。シャウビューネ、ラディアルシステム、ドイツ座、ノイケルナー・オーパー、ゾフィーエンゼーレ、HAU(Hebbel am Ufer)等々。これらの劇場では、普通のオペラ劇場では味わえないような舞台の楽しみがある。私がとりわけ足繁く通ったのはフォルクスビューネだ。ここでは、音楽劇の常識を覆すような作品が数多く生み出されている。観客には若い人が多く、上演中には笑い声が響き、劇場空間は熱気を帯びている。なかでもヘルベルト・フリッチュの音楽劇はずば抜けて面白く、同じ演目を何度も観に行った。例えば、パウル・リンケのオペレッタ《ルナ夫人》。原作そのものが月を舞台にした奇想天外な物語なのだが、フリッチュはそれをさらにデフォルメし、ウィット、皮肉、パロディ、アクロバット、ナンセンスな言葉遊びなどをない交ぜにして、ダダイズム的な、全くユニークな音楽劇として呈示する。「オペラはこうあるべき」といった観念から完全に解放されている。
 オペラは「死んだ芸術」などと言われて久しい。しかし、それに対抗するような試みが、ベルリンでは数多く行われている。ある古典作品をラディカルに解体することは、作品自体を壊しているのではなくて、全く新しい枠組みの中で捉え直し、これによって古典作品に再び生命が吹き込まれる。それは破壊行為ではなく、従来の正攻法の演出では見えてこない側面を照らし出す、創造的な行為なのだ。伝統を守ること、変えないことだけが舞台芸術の生命を維持するのではない。実際に客席を含めた上演空間が活気に満ちている。ベルリンでは舞台芸術も常に現在進行形なのだ。
 オペラ制作の現場で、ドラマトゥルギーや演出助手の研修を受けられたことも、留学中の貴重な体験だった。2010年3月に、ライプツィヒ歌劇場で、演出家のペーター・コンヴィチュニー氏のプロダクションに携わった。そこでは、作品をどう解釈するか、そしてそれをどう形にするかという、作り手の視点からオペラの現場に立つことができ、観客の視点を考慮に入れて視覚化する戦略を学ぶことができた。稽古で歌手が不在の時には、私たち研修生が代役として舞台で演技をするのだが、動きがなかなか把握できず、演出家に怒鳴られることもあった。歌詞を覚え、歌い、相手の動きも把握し、自分の動きを理解し、それを決められたタイミングで行う。オペラ歌手の大変さを、身をもって知った。
 論文執筆の息抜きは、劇場通い、ベルリン散策、大学のスポーツクラブ、そして合唱だった。合唱団の中で歌っているときには音楽だけに集中し、頭が空っぽになる。これが抜群のリフレッシュになるのだ。
 ベルリンに来て間もなく、バッハ合唱団(Bach Chor)のメンバーとなった。私はクリスチャンではないが、一緒に歌いたいと合唱団を訪れると、指揮者は快く受け入れてくれた。この合唱団はベルリンのツォー駅の前にある、カイザー・ヴィルヘルム記念教会を本拠地とする。1961年に設立され、現在のメンバーは約80人。団員はさまざまな年代や職業の人たちで構成されている。この教会では、隔週土曜日に「カンタータ・ミサ」が行われる。合唱団が歌う曲は、バッハのカンタータに加え、ハインリヒ・シュッツやヨハン・ヘルマン・シャイン、メンデルスゾーンらのモテットなど多彩だ。モテットを歌っていて、絶妙な不協和音が静かに立ち現れる瞬間は、ハーモニーが生まれたとき以上に快感だった。クリスマスにはバッハの《クリスマス・オラトリオ》を、聖金曜日にはミサ曲や受難曲を歌う。2年に一度はコンサートがあり、近現代の合唱曲もプログラムに入っている。年に一回はベルリン郊外で強化合宿があり、昼間はみっちり練習、夜は宴会で羽目を外して楽しむ。研究で行き詰まったときに、こうして研究とは別の文脈に身を置いて、全く別のことに没頭できる時間が持てたことは、大きな救いだった。


ブランデンブルク州の小さな街の教会でコンサートを行ったときの練習風景

 ベルリンで過ごした6年はあっという間だった。しかし、その中で出会った人々、経験した出来事を振り返れば、6年の歳月が流れたのにも納得がいく。それくらい中身の詰まった時間だった。それは今後の人生において特別な意味を持ち続けるだろう。帰国した今、大学教員としてドイツ語を教えている。学生たちには、学生のうちに、できる限り未知の世界へと踏み出して、多くの出会いや体験を味わってほしい。ときには惨めな思いをし、理不尽な状況にぶつかることもある。しかし、それも異文化に身を置くことの味わいの一つだ。未知の世界で未知の体験をして未知の自分を発見する、そういう体験こそが自分を成長させてくれるに違いない。

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