ブレーメンでの生活 木本伸 2006年3月から12月まで,国立高専機構の在外研究員として北ドイツのブレーメンに滞在しました。当地での立場はブレーメン大学の客員講師であり,11月には文学理論のゼミで授業をさせてもらいました。ニーチェのギリシア悲劇論の枠組みでホフマンの小説を解読するという内容でしたが,聴衆の評価は肯定的で,若い講師の方から,そのテーマで共同研究をしたいという申し出も頂きました。ただ,このゼミ以外は「学生」に徹して,できるだけ最先端の文学論や映画論を吸収するように努めました。特に嬉しかったのはブレーメン市立劇場の水準が高かったことで,現代劇からオペラまで,その斬新な演出には飽きることがありませんでした。大学の研究室でも,かなりの時間を芝居の台本を読んで「予習」に努めていました。また,週末にはハンブルクやハノーファーに出かけて,ひさしぶりに近現代の絵画を堪能できたことも貴重でした。どうにも気力がわかないときには,とにかく町に出て,まずは本屋と映画館,そして最後には居酒屋を回っていました。夕食後,ふらりと訪れた映画館で出会った作品の中には,忘れがたい印象を受けたものも少なくありません。ユーロ高で月給生活者の家計は逼迫していましたが,後先を考えず,高等遊民のような生活を送った9ヶ月でした。 またブレーメンは,各州の連邦制をしくドイツにおいて,ベルリン,ハンブルクとともに都市が単独で一州をなす例外的な存在でもあります。(正確には,ブレーメンは港町ブレーマーハーフェンとともに,一州をなしています。)こうした歴史を象徴するのが,世界文化遺産にも登録されているブレーメン市庁舎です。このヴェーザールネサンス様式を代表する建物は,いまなお様々なレセプションなどで使用されています。私も外国人研究者のための晩餐会などで,何度か足を運びました。市庁舎の正面には,ローラント像が立っています。ローラントは市民の自由の守護者です。その両膝には突起物があり,この二つの突起の幅が,ハンザ時代にブレーメンの商取引で通用した長さの単位「エレ(Elle)」でした。 Bremer Rathaus 世界に開かれた商業・港湾都市の伝統からか,ブレーメンは外国人にとっても住みやすい町であるようです。ここでは,かつて南ドイツの村で受けたような外国人に対する排他的な視線を感じることは,ほとんどありませんでした。そのような経験の当否を率直に問いただしたところ,自由都市の伝統と並んで,ここ十数年のグローバリゼーションの進展を理由に挙げる友人もいました。地元紙によると,現在ではブレーメンの最大の貿易相手は中国なのだそうです。
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プロチームだけではなく,ブレーメンは子供から大人までサッカーがさかんな町でもあります。町中のいたるところに芝生の立派なグラウンドがあり,大人も子供も一緒になってボールを追いかけています。私の二人の息子も, BTS(Bremer Turn- und Sportgemeinde)というチームに所属していましたが,アマチュアのチームでも専用練習場やクラブハウスが完備しており,その設備の充実振りには驚かされました。そのようなチームの運営は地元の商店街によって経済的に支援されています。また週末ごとの地域対抗の試合は5ユーロ程度の観戦料を取って行われており,これも応援するチームへの寄付という意味合いの強いものだと思いました。 小学生でもクラブチームでサッカーをしているのは,それなりの「足自慢」ばかりでしたが,ブレーメンでは子供たちが集まると,男女の区別なく,まずは「サッカーをしよう!」ということがよくありました。一昔前の日本であれば草野球に近い感覚でしょうか。こんなことが言えるのも,私自身が子供たちにまじって一緒にボールを蹴っていたからです。息子たちが不在のときは,近所の子供たちが私を草サッカーに誘いに来ることもありました。ただし,これはドイツ中で当てはまることではないようです。ゲッティンゲン出身の大学の同僚によれば,この町はドイツでも屈指の「サッカーどころ」だそうです。実際に,この2年後に留学した南ドイツのシュベービッシュ・ハルでは,ブレーメンほどのサッカー熱を感じることはありませんでした。 ドイツの小学校 このように家族を伴った滞在では,単身の場合と比べて,かなり生活の様相が変わることになります。たとえば学生寮に入れば,生活の全体をドイツ語に浸すことができるでしょう。しかし,家族と一緒では,日本語を忘れることはできません。それは言葉の習得の上では障害とも言えるのですが,今から考えると,家族同伴ならではの貴重な体験も少なくありませんでした。それは地域社会を丸ごと経験するということです。今回は家族5人での滞在となりましたので,小学校の保護者会やクラス旅行などを通して,地域の問題に当事者として関わることになりました。私たちの住まいは,いわゆるサラリーマンなどの納税世帯の多い地区にありましたが,それでも小学校の生徒の半数以上は移民など,ドイツ以外の由来を持つ子供たちで占められていました。すでにドイツの都市は「人種の坩堝」と呼ぶべき状況にあるのかもしれません。そのことから生まれる社会の活力と不安を実感した9ヶ月でもありました。
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